この記事は基本的にノンフィクションであり、登場する人物・団体・名称等は実在のものですが、若干の文学的脚色があります。
この記事には医療・医学に関する記述が数多く含まれていますが、その正確性は保証されていません[*1]。検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。この記事の内容の信頼性について検証が求められています。確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。
緊急事態宣言の発令を受け、東京大学本郷キャンパスは警戒レベルを「3(制限ー大)」に引き上げた。
東京大学本郷地区のキャンパスマップ
「守衛のいる⾨のみ開き、⼊構には⾝分証の提⽰と⼊構記録が必要です」
本郷三丁目で降りて地上へ上がる。街は穏やかな陽気につつまれている。
インド=ネパール料理屋の発するメッセージはポジティブである
道を渡ると、まず春日門がある。
春日門
春日門は閉鎖されている。忍術を心得ない一般人でも乗り越えられそうな柵だ。そもそも、誰も監視していない。
しかし、龍岡門、正門、赤門、弥生門、農正門は開いていると書いてあるから、そのまま道を北上する。
龍岡門。左側で水色の制服を着た警備員が入構者のチェックをしている
道の左側から来たから、左側から入る。警備員に呼び止められる。
警備員「職員証を見せてください」
患者様「職員ではありません」
警備員「では学生証を見せてください」
患者様「学生ではありません」
警備員「では入構はできません」
門の右側の歩道から自転車に乗った人が入っていく。厳密に言えば道路交通法違反であるが、誰にも呼び止められない。
患者様「ほら見てください。あちら側から自転車が入っていくではありませんか。3ヶ月以下の懲役または5万円以下の罰金です」
警備員「私の担当はこちら側ですから」
患者様「それは縦割りの官僚主義というものです」
警備員「学生証を見せてください」
患者様「赤門カードでは駄目ですか」
警備員「あれは2017年に廃止されましたから無効です」
患者様「では誰が入れるのですか」
警備員「規定では学生及び教職員等となっています」
患者様「『等』とは何ですか」
警備員「関係者と言う事です」
患者様「宇宙を構成する全ての物質は重力場と電磁場を介して相互作用をしていると言う事はアインシュタインによって証明されました。1915年の事です」
警備員「宇宙の事など解りません」
けっきょく私の属性は「等」ということになり、門をくぐった。入構記録も求められなかった。
東京大学医学部付属病院の正面入り口
病院は自由に入れる。呼び止められて体温を測られたりはしない。病院に出入りしている患者仲間たちは、みな「等」という属性によって通行の自由を得ている。
病院の入り口に張られた申告項目
窓のところに張り紙がある。しばし立ち止まって項目を読む。
誰かが私を監視しているのではない。自己申告とは何か。それは「自己にによって自己を監視せよ」という、巧妙に内面化された権力作用である。
職員さんが話しかけてくる。二十代ぐらいの、優しげな、眼鏡をかけた男性だ。一見すると武器を持っているようにはみえないが、きっと高度な武術や忍術を心得ているから、刃向かえば素手でも勝ち目はない。
係員「なにか心当たりがおありですか」
患者「さいきん食べ物の味がおかしいのです」
係員「それはいけません。どんなふうにおかいしいのですか」
患者「食べ物が苦いのです」
係員「それはいけません。嗅覚の異常はありますか」
患者「いえいえ大丈夫です。たぶん薬の副作用です」
係員「ねんのため伺いますが中国など海外から帰国されましたか」
患者「はい中国から帰国した事があります」
係員「中国で何をしていましたか」
患者「熱を出していました」
係員「それはいけません。いま体温が37.5℃以上ありますか」
患者「0.1℃単位の誤差など自分では解りませんよ」
係員「中国から帰国したのはいつですか」
患者「17年前です」
係員「2週間より前なら問題ありません。不安な事があれば主治医に相談してください」
立ち話をしていたら遅くなってしまった。急いで自動受付を済ませ、エスカレーターに飛び乗る。目の前には豊満な御婦人の臀部が立ちはだかっており、駆け上がるわけにも行かない。
横に立っていた看護師さんに声をかけられる。
看護師「ソーシャルディスタンスをとってください」
患者様「それは何ですか」
看護師「前の人と1.8m以上離れてください」
三階の壁にある『春望』(→「『烽火連三月』ー赤レンガ通院記ー」)
階下のカフェでは親子連れが楽しそうにジュースを飲んでいる。男の子が飲んでいる黄色いジュースは、マンゴージュースだろうか。
「精神神経科」の下に「PSYCHIATRY」と併記されている
精神神経科というのも冗長である。神経は器官だが、精神は分泌物である。「消化液消化器科」とは言わない。
じっさい私は悩み事があるというよりは、睡眠の問題で困っている。睡眠の問題は、もっぱら神経の問題であり、精神の問題ではない。しかし、分類上は精神科の領域である。
順番が来て、診察室に入る。
医者「具合が悪そうやね」
すぐれた医者というのは、患者が診察室に入ってくる瞬間にズバリその症状を見抜くという。話をして薬を処方してもらうだけなら動画通信でもできそうなものだが、それでは「雰囲気」が伝わらないのだ。
患者「なんだか不安です。世界は矛盾したメッセージに満ち溢れています」
医者「ダブルバインド的状況か」
患者「メッセージを文字どおり受け取れば行動できません。メッセージの裏側の意味を考えると行動できません。メッセージを無視すると行動できません」
医者「今日は落ち着きがないね」
患者「注意欠陥多動性障害ですか」
医者「患者が自分で診断名をつけたらあかん。診断名に支配されてしまう」
患者「『発達障害が流行している』という言説が流行しているというわけですね」
医者「ソーシャルコンストラクショニズム、社会構築主義やな」
そんな話をしているだけで、もう三分ぐらい過ぎてしまう。もし悩み事があるなら、カウンセリングに行ったほうがいい。
なにしろ病院では一時間待ち五分診療だから、ゆっくり話をしている時間などないし、いかに短時間で当意即妙のやり取りをするか。そこが患者と医者の真剣勝負なのだ。
最後は薬の話に落とし込むのが定石である。
医者「ルネスタ[*2]はどう」
患者「食べ物がちょっと苦くなりますね」
医者「アモバンよりはましやろ」
患者「薬としてはよく効くのですけどね」
医者「なら薬は今までと同じでいいね」
診察を終えて、またエスカレーターで一階に降りていく。
目の前の現実が、どうもに夢のように感じられることがあるが、たいがいは寝不足のせいである。なにより毎日夜更かしをせずしっかり睡眠をとって早起きする、そういう当たり前のことが肝心だ。
さて、当座のあいだでも、こういった内容を覚えておくためのレッテルを見つけなくてはならない。どうしたら覚えておけるのか。「エスノメソドロジー」を使い始めたのは。このようなわけなんだ。「エスノ」という言葉は、ある社会のメンバーが、彼の属する社会の常識的知識を、「あらゆること」についての常識的知識として、なんらかの仕方で利用することができるということを指すらしい。(p. 16)
エスノメソドロジーとは社会のメンバーがもつ、日常的な出来事やメンバー自身の組織的な企図をめぐる知識の体系的な研究だ。この場合、われわれ研究者は、そのような知識が状況に秩序を付与し、また当の状況の一部にもなっているとみなす。(p. 19)
ハロルド・ガーフィンケル「エスノメソドロジー命名の由来」[*3]
一階に降りると、次は「計算」という窓口に行く。紺色の制服を着た黒髪の女性たちが、まるでコピー・アンド・ペーストしたように、カウンターの向こうに並んでいる。いや、同じ制服を着ているだけで、近づいてみると、それぞれ、顔つきも違うし、話をしてみれば、人柄も違うことがわかる。
空いているカウンターに呼ばれ、診察券と処方箋を出す。目の前にいるのは、三十歳ぐらいだろうか。丸顔で、微笑むと可愛らしい女性だ。
費用の計算が終わると、請求書と次回予約の紙を受け取る。次に、自動会計機のところに行って、費用を支払う。
計算係「あの、すみません」
後ろから声をかけられる。
患者様「はい」
計算係「ちょっと待ってください」
患者様「はい」
計算係「計算を間違えちゃいました。請求金額が95円多すぎました。すみません、計算しなおしますね」
患者様「95円だなんて言わなければわからないですね。何千円も多ければ気づきますけど」
計算係「ごめんなさいね、四月から法律が変わったので」
彼女は横を向いてパソコンを打ち、請求書を印刷し終える。
計算係「はいこちらが新しい請求書です」
患者様「どうもお手数をおかけして」
計算係「計算をするのが仕事ですから」
患者様「こんな時期にお仕事大変ですよね」
計算係「いいえ、わたし一人暮らしですから、ほらずっと外出自粛とか言われて、でも一人でずっといると寂しくなったり元気がなくなったりして」
患者様「そうですよね。わかりますわかります」
計算係「だから家を出て仕事をするほうが、いろいろな人とお話しできますし」
患者様「そうですよね。わかりますわかります」
計算係「それに同じ病院でも計算の窓口は良いのですよ」
患者様「そうなのですか」
計算係「診療受付だと患者さんが辛そうだったりするのですけど、計算の窓口だと治療が終わって元気になって帰ってゆく人が多くて、なんだかそれが嬉しくて」
患者様「なるほど。それには気づきませんでした」
計算係「お待たせしてしまってすみませんでした。どうかこれに懲りずに、また来てくださいね」
患者様「病院というのは、また来ないほうがいい場所ですよ本当は」
計算係「あらごめんなさい。そうですよね。そうですよね」
彼女は屈託なく笑った。人懐っこそうな笑顔だ。私も元気になれたような気がした。
日本人は、制服を着て職務を遂行する場面では私情を表に出さず、まるでAIを搭載したアンドロイドのように振る舞うのが良しとされる。
けれどもこういうフレンドリーな会話をすると、規則に従って機械のように働いているのは職務を正確に遂行するための方便であり、規格化された制服の一枚下には情愛を持ったふつうの人間がいるのだとうことがわかる。彼女だってプライベートではお洒落をするのだろう。それがわかると不安な違和感がすうと消えていく。
えらく話が長くなってしまった。しかし昼休みの病院は空いていて、後ろに並んでいる人もいない。
クレジットカードで会計を済ませ、処方箋を鞄に入れて病院を出る。雲の間から晴れ間がのぞいている。青空というのは気持ちのよいものである。
コンストラクショニズムだとかエスノメソドロジーだとか、小難しいカタカナ語を使うとややこしくなってしまうが、簡単に言えば、人々が当たり前だと思って行っていることは、じつは社会生活をすみやかに営んでいくために、便宜的につくったものにすぎない、ということだ。
緊急事態ということになって、その、当たり前の仕組みがうまく行かなくなり、みな、慌てているのだと思う。けれども、そのことで、いままで無意識に従ってきた人為的な構築物が、逆に恣意的なものだとわかると、図と地が反転し、いままで見落としていた空や雲や、風や草木が、そのぶん、活き活きと感じられるようになる。
「国破れて山河あり」という詩も、けっして悲しい心情だけを吐露したものではない。人間が作った国家や建築物が無常であることを知ったからこそ、背景にあった山や河が保ち続けてきた悠久の時間に触れることができた。そういう意味に読むこともできよう。
いつもの鉄門薬局に行くためには鉄門から出るのが最短距離なのだが、春日門の掲示によれば、鉄門は閉鎖されているらしい。
鉄門
試しに行ってみると、鉄門はいつもどおり開いている。警備員もいない。
新緑の匂いの濃い季節になった。城春草木深。城春にして草木深し。
CE 2020/05/25 JST 作成
CE 2020/05/31 JST 最終更新
蛭川立