この記事は基本的にノンフィクションであり、登場する人物・団体・名称等は実在のものですが、若干の文学的脚色があります。
目次 補遺は本文の下にあります
玉豚
鉄も鍛えなくては鋼にならないように、人も食べなければ戦えない。これは、三国時代、魏の曹操の言葉だと伝えられている。
曹操がなぜ天下統一を成し遂げたのか。その点については歴史好きの諸兄が仮説の比較検討を楽しんできたところだろう。
南方に位置する呉や蜀は気候が温暖で食料が豊富だったのに対し、魏のほうは、食料という点では劣勢であった。食べものが足りないと、必死で戦う、だから勝つ。「貧しい〈北〉と豊かな〈南〉」というパラドックスである。
ここのところ、変に忙しい。体力的に多忙だというよりは、仕事の種類がふだんと違うので、それで忙しい。
仕事は充実しているが、ついつい食事も時間も忘れ、夜更かしをしてしまう。寝食を忘れてしまう日々が続く。
しかし、食べなければ、寝なければ、仕事をするための体力も出ない。本末転倒である。必要なのは、体力である。
引きつづき、東大病院に通院を続けている。主訴は、睡眠障害である。
東京大学本郷キャンパスにある龍岡門
二週間前に来たときと変わらず、龍岡門の左側では入構チェックが行われており、右側では人々が素通りしている。守衛さんに文句を言っても埒があかないことはわかったから、何も言わずに右側から入る。
国は乱れ、天下の人々の生活は混乱しているが、混乱が常態化すると、それに慣れてきてしまう。
医者「今日は調子よくなったみたいやね」
患者「世の中が狂っていることに慣れてきてしまいました」
医者「慣れも適応力やな。仕事はどう」
患者「慣れない仕事で忙しいです」
医者「適度に忙しいのはええ事や」
患者「ステイホームとか言って家でじっとしていたら、かえって体調が悪くなりましたから」
医者「それなら薬はいままでと同じでいいね」
病院も衛生面での規制が緩和されたようで、院内の売店も再開した。
売店でブドウ糖とアミノ酸を購入し、薬局で酒石酸ゾルピデム[*1]を受けとって帰路についた。
夏至も近い。スマホは太陽光でも充電できるが、動物は植物の光合成に依存している。およそ従属栄養生物は、最低でもブドウ糖などの糖類と、タンパク質の材料となるアミノ酸を摂取しないと生きていけないのである。
曹操本人の遺骨は河南省で発見されたが、曹操の父親、曹嵩の遺骨は安徽省で発見されている。曹嵩は手に翡翠製の豚の彫像を握っていた。
1973年に安徽省亳州市董園村一号漢墓から出土した玉豚。長さは約10cm。CE2世紀・後漢時代。安徽省亳州市博物館収蔵。東京国立博物館で撮影
どうやら、死んだ後でもなお豚肉が食べたかったらしい。漢族の食への執念というべきか。
家畜化され改良を重ねた豚肉は漢族にとって美味の象徴であったし、同時に豊かさの象徴でもあった。
けれども、コウモリやセンザンコウやハクビシンのような珍獣を食するのもまた、豊かな男性たちだという。決して美味しいはずがないのだが、一種の漢方薬として珍重されてきたらしい。薬どころか、病気になるリスクがあるというのに。命を賭けてフグを食べるのも馬鹿馬鹿しいが、それは自己責任である。しかし疫病を流行らせるのは社会的責任の欠如である。
アメリカ人類学会の年次大会がCOVID-19をテーマに取り上げるというので、漢民族の食文化についての分科会を行おうと提案してみたが、そういえば、まだ返信がない。ロンドンのUCLのヤン先生に相談のメールを打ってみようか。向こうはいま何時だろう。しかし、そうやって時差の感覚が狂っていくと、また昼夜逆転生活に戻ってしまうから、注意しなければならない。睡眠時間を削ってもいけない。
中華帝国の覇王になって死後も豚肉を食べようなどという野望はない。せめて優秀な研究助手が三人でもいてくれたら、と思う。
けれども寝食を忘れ天職に没頭できるのは男子の本懐ではある。
今宵の御馳走は、東大サプリメント・体力式アミノ酸ゼリーとブドウ糖補給ゼリー・グルコレスキューである。これが、なかなか薄味で、上品な味わいである。その他の栄養素として、鉄、葉酸、DHA、EPA、亜鉛、その他ビタミン類を少々補給しておけば万全である。