日本の精神医学の学術誌に、医療用サイケデリックスについての概説を執筆中。
サイケデリックスの研究は、2015年ぐらいから、精神疾患の改善という実用的なところから復活してきたらしいが、気づくのが遅くなった。

LSD研究論文の年次推移[*1]
研究の盛衰をグラフで見ると、まるで感染症のような増減がある。
サイケデリックスが国際的に規制されたのが1970年ごろであり、これを機に研究は衰退した。しかし、なぜか研究は復活し、2000年ごろに小さなピークがあり、そして一貫して増加している。
私がサイケデリックスに関心を持つようになったのは、この2000年ごろである。アマゾンのアヤワスカに対する注目が高まっていた時代である。
フルドーズで神秘体験を得て、宇宙と一体化してこそのサイケデリック体験なのだから、ロードーズでは中途半端で気持ちが悪いだけだし、ましてやマイクロドーズなどという流行は、ホメオパシーと同じぐらい怪しげなプラセボだと偏見を持っていたところがある。
日本では2002年にシビレタケなど、シロシビンを含有するキノコが規制されたが、サボテンなど、サイケデリックスを含む植物自体は、ずっと合法的なままであった。私も海外でも日本でも、少量を試したことがあり、それは興味深い体験ではあったが、それ以上に探求しようとは思わなかった。
それから二十年ぐらいが経ち、日本では合法的なサイケデリックスがネット上で販売されるようになってきた。驚くべき時代の変化である。サンプルを入手してじっさいにロードーズを試してみると、身体が重くて何をするのにもおっくうな感じが三時間ぐらいでスッと消えて、シャキッとする。歳をとったせいだろうか、知らないうちに心身に疲れが溜まっていたらしい。
精神作用がある物質を服用しても、身体の疲れが治るわけではない。カフェインなどの精神刺激薬は、一時的に疲れを麻痺させるだけである。いっぽう、サイケデリックスには「自分が疲れている」ということに気づかせてくれる作用がある。サイケデリックスの精神作用の再発見であった。
ティーンエイジャーのころに音楽などを通じてドラッグカルチャーに興味を持ち、それがゲートウェイになって、LSDやサイケデリックスの世界と出会った、という話は、よく聞くが、そういえば自分はどうだったかというと、とくに音楽に興味があったわけでもなく、心を病んで悩んでいたわけでもなかった。
中高生のころ、1990年前後の日本では、マイクロコンピューターがマイ・コンピューターへと急速に進化していた。もうオタクの昔話になってしまうが[オタクという言葉さえなかった時代だが]NECのPC-8000シリーズが登場し、「マイコン」は秋葉原で部品を買って組み立てるものではなく、家電製品として買えるようになった。私はインテルやザイログのアセンブラよりも、モトローラのアセンブラのほうが構造化されていて美しいと思ったから、富士通のFM-7を買った。それからBASICよりもPascalやCのほうが構造化されていて美しいとも思っていた。
湘南高校の図書館で、LSIの本を探していた。トランジスタが進化してICに、ICが進化してLSI(大規模集積回路)という新語で呼ばれるようになった時代である(今ではLSIは当たり前になりすぎて、LSIという言葉さえ使われなくなった)。この革新的な技術、LSIについて書かれた本が書棚に[アルファベット順にではなく、分野別に]並んでいた、その中に、水色の背表紙で『LSDー幻想世界への旅ー』というタイトルの本が紛れ込んでいた。アルベルト・ホフマンの『私の問題児』の和訳だった。
幻想世界への旅、という邦題に心惹かれ、その本を借りて読んだ。そのLSDを服用すると、音楽のスピーカーからタコの足が躍り出て、音楽と共に優雅に舞うだとか、そんな内容を読んで、そんな薬を飲んでみたいと思った。
LSDの作用の発見は偶然の幸運、セレンディピティだったと書いてあったが、その本との出会いも、セレンディピティだった。
いま、この文章を書きながら、あらためて『LSD』を手に取って、その前書きを読んでいる。ドイツ語の原文(前書きは「『LSD: Mine Sorenkind』」にアップした)と照らしあわせてみた。濫用されずに、医療と瞑想のために活用できれば、問題児(Sorgenkind)は神童(Wunderkind)になるだろう、という言葉で結ばれている。いま思えば、じつに真っ当な見解である。
心理的な問題を治したい、という治療的な願望から使用する人も多いし、それも共感できる。しかし、自分の場合は、新しく合成された物質を使って、精神の世界を探検してみたいという探究心のほうが強かった。
しかし、思春期には、人並みに自我が芽生え、人間はなぜ生きているのだろう、という実存的な問いには悩まされていたし、そういう悩みは、セロトニンの不足によって起こるもので、だからセロトニンを補う薬を飲めば悩みは消えてしまうということも本で読んで、そんな薬があるのなら試してみたいとも思っていた。
セロトニンはタンパク質や核酸と比べると、とても単純な分子である。その単純な分子が、人の悩みを消したり、無意識世界の扉を開いたりする。これは、当時、勃興しつつあった分子生物学への関心を加速させた。物質主義的、還元主義的な世界観に魅了された。サイケデリックスへの関心は、物質主義への関心と反比例するというが、そこでいう物質主義とは、金銭や権力への欲望のことであり、それは社会的に構築されたものだから、物質ではない。
自分に器質的な躁うつの素因があるかもしれないということに気づいたのは、大学に入学して一人暮らしをはじめたときである。このときも、精神的に悩んでいたというよりは、逆に、精神を病んでこそ天才が花開くのだと願っていたところがある。京都大学の校風の影響もあった。教養部で藤縄昭先生や木下冨雄先生の講義を受けて、先生がたが若いころには、LSDという物質が日本の大学でも研究されていて、先生がたじしんも試したことがある、という話に、興味津々だった。

木下先生の授業で見たLSDネコの絵[*2]
憧れの抗うつ薬を飲んだのは、もっと後だった。東大理学部の大学院に移ったとき、本郷の診療所で処方してもらえたのが、三環系抗うつ薬だった。副作用がひどくて効果は感じられなかった。たぶん、自分はうつ病などではないと思っていた。抗うつ薬を処方してもらって飲んだのは、むしろ好奇心からだった。
大学院を出たころに、アメリカでSSRIが流行していることを知った。三環系抗うつ薬とは違い、うつ病だけでなく、ふつうの人が飲んでもハイになれるのだというから、これは試してみたかったし、その後、パロキセチンを飲んで、じっさいに効果を感じたのは、もっと後のことである。
それから、高校生のころには、高い山に登って星を見るのが好きだったが、そのころ、ゆっくり息を吐いて止めてしまうと、不思議と気持ちが和らぎ、余計な悩みが消えてしまう、ということに気づいた。息を吐けばすべての悩みは消える、そういう発見を天文部の友達にも説いて回ったが、危険な宗教だと批判されたものだった。低酸素状態で内因性DMTが分泌されることを知ったのは、2020年にアヤワスカアナログ裁判が始まった後のことである。
日本では、LSDと大麻と結びついたカウンターカルチャーが衰退していく中で、しかしLSDの文化はMDMAと結びつき、アンダーグラウンドなパーティードラッグとして使われ続けてきたようだ。そこで流通していたLSDは、違法であって正体不明だということもあったようだが、用量の少ないものであったらしい。意識の変革よりは、オキシトシンを増やすような、共感性を高めるような物質として使用されてきたようだ。
ユングはアルコール依存症に対するLSD療法についての書簡の中で、サイケデリック体験の危険性を論じているという。異様な幻覚体験によって精神に異常をきたす、といった類の、雑な議論ではない。
acidmollylsd.blog.jp
このブログの中では、ユングの『自我と無意識』が引用されている。和訳の143ページにある「寝た子を起こすな」という格言の引用が、ユングの「無意識の意識化=サイケ・デリックス」に対する態度を的確にあらわしている。
心的な情報処理の大半は無意識の領域で遂行されており、それを意識化すると、自我が情報を処理しきれなくなってしまう。もともとの脆弱性や不適切なセッティングによっては、統合失調症や躁病、被害妄想、自我肥大といった病理的状況も引き起こす。
しかし、サイケデリックスだけがとくに特殊な体験を引き起こすわけではない。健常者の日常生活の中で、無意識の元型が意識の領域に浮上することによって起こる一時的な狂気としては、たとえば恋愛がある。男性にとっての恋愛は、元型としてのアニマの活性化である。毎晩の夢もまた無意識の意識化だが、夢の内容はふつう、すぐに忘却されることによって自我とのバランスをとっている。
ifs.nog.cc
サイケデリックスには、忘却されていた記憶を想起させる作用があり、それがPTSDの治療にも使える。しかし、不快な出来事の記憶を意識下に忘却するのは、適応的な心的機能でもある。わざわざ不快な記憶を想起する必要はない。治療のために、あえて不快な記憶を想起させるのであれば、想起された記憶への意味づけを修正し、現在の自我に統合する作業が必要である。サイケデリック療法は心理療法と組み合わせる必要がある所以である。
そもそもユング自身に精神病的な性向があり、彼は一時的にスピリチュアル・エマージェンシーを体験している。そのような素因と体験があったからこそ、深層心理学の研究を発展させることができたのだろう。
無意識の意識化を引き起こす物質は、うまく使いこなせば、創造性や知的探求の効果的なツールになりうる。サイケデリックスは、治療のためだけではなく、芸術家や研究者にとっては、積極的に役に立つ方法論になるはずだ。
サイケデリックという言葉は特定のカルチャーと結びつく傾向があるが、それはむしろ創造性を妨げることがある、ということにも注意しておく必要がある。皆が揃ってカラフルなヴィジョンをデザインした「制服」を着て、同じように「サイケ」な音楽を演奏するのであれば、それは、むしろ自由な創造性を妨げてしまう。
都市で、組織の中で働く人間が「ドロップアウト」することがある。組織の中で、まるで歯車のような役割を果たしていた人間が、自由に目覚め、退職してフリーの仕事を始めるとか、技術文明の中で生活していた人間が、自然の大切さに目覚め、地方に移住して農業を始めるとかいった行為は、文化の中で自我が演じていた役割を相対化することにはなっても、社会的組織や技術文明の否定をすることばかりに向かえば、それは統合よりも逃避になってしまう。(組織化された社会の外部に出ること自体を組織化している文化もある。たとえば仏教における「出家」がそうである。)
サイケデリック体験は「インスタント悟り」とも表現される。薬物によって一時的に悟ったような体験をするのは無意味だということではない。サイケデリックスを使用することによって、無意識で起こっているプロセスをいったん意識の上に浮上させて、どういうプロセスを自我と統合する必要があるのかを前もって知ることができる。しかし、統合する作業には時間がかかる。無意識の情報処理を知ることは、無意識を自我に統合する作業を助けるだけである。
DMTやLSDなどのサイケデリックス(精神展開薬)は「自我の死」体験を引き起こすが、これによって自殺念慮が消失するという逆説的な作用があり、うつ病や依存症の治療薬としての研究が進められている。
2020年3月には、相思樹の樹皮を譲渡した青井硝子(筆名)が逮捕され、起訴された。京都地裁で行われた初公判で青井被告は自らの行いを菩薩行であるとして罪状を否認。証人として召喚された大学生は法廷で自らの体験をショーペンハウエルとヴェーダーンタ哲学によって説明した。
京都地裁は2022年9月に青井被告に対し懲役3年、執行猶予5年の判決を言い渡した。青井被告は控訴し、裁判は2023年4月から大阪高裁で再開される。
ハイドーズのサイケデリックスは「ego death(自我の死)」あるいは「Ego-Dissolution(自我の融解)」を引き起こす。しかし、これはユング心理学でいう「自我」を「自己」へ再統合するきっかけにもなる。
chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://matthewnour.com/wp-content/uploads/2021/01/EDI.pdf
この裁判で興味深いのは、DMTの所持が問題になっていることである。DMTは哺乳類の脳内でも生合成されているので、そうすると、麻薬の所持という概念自体が意味を失うからである。生物学的にみても、植物が生産するサイケデリックスで、それが動物の体内では神経伝達物質として機能しているのは、DMTと、それからアーナンダミド(規制されていない)のふたつの物質が注目すべき実例である。
精神活性物質の社会的階層
Wikipediaの「薬物依存症」に載っている、依存性(があるとされる)薬物の一覧表を、身体的依存性の低さの順に並べると、あたかも精神活性物質にカースト制度があるように見えてくる。

補って再整理すると、以下のような感じになるか。
物質 |
階層 |
活動 |
規制 |
サイケデリックス |
僧侶 |
宗教 |
違法 |
MDMA |
貴族 |
? |
違法 |
大麻 |
芸術家 |
芸術 |
違法 |
覚醒剤 |
軍人 |
戦争 |
違法 |
カフェイン |
労働者 |
休眠→労働 |
合法 |
アルコール |
労働者 |
労働→休眠 |
合法 |
睡眠薬 |
病者 |
療養 |
(処方薬) |
オピオイド |
(アウト・カースト) |
脱落 |
違法 |
世俗化した近代社会においては、僧侶階級は不要である。
民主主義社会においては、貴族も不要である。しかし、失業者は救済されるべき存在である。ただし、疲労した労働者も、制度的な休職と療養が必要である。
ポル・ポト政権下のカンボジアのように、極端な共産主義社会においては、知識人や文化人も否定されるのかもしれない。
戦後の日本のような平和主義国家においては、軍人は不要である。軍隊のない社会が成り立つのだろうか。日本には軍隊はなくても警察はある。
記述の自己評価 ★★★☆☆
(つねに加筆修正中であり未完成の記事です。しかし、記事の後に追記したり、一部を切り取って別の記事にしたり、その結果内容が重複したり、遺伝情報のように動的に変動しつづけるのが
ハイパーテキストの特徴であり特長だとも考えています。)
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- CE2022/01/30 JST 作成
- CE2023/06/03 JST 最終更新
蛭川立