この記事には医療・医学に関する記述が数多く含まれていますが、個人の感想も含まれており、その正確性は保証されていません[*1]。
この冬は、冬眠病のような休眠状態にあったが、身体の運動のほうの制止が強いのは相変わらずで、その代わりに、日本語なら難しい本も読むことができた。
躁鬱病圏をめぐる日本語で読める主な書籍を枕元に積み上げた
このことを主治医に話すと、布団から起き上がることができないぐらいのどん底でも、難しい本が読めるとはさすが学者だ、と言われてしまったのだが、抑うつ状態にはまり込んで、はじめて、むしろ当事者的な理解ができるようになった。
使われている言葉や理論が難しいかどうかではなく、そこに書かれていることに当事者的な感覚があるからこそ理解できるようになったのである。
躁鬱病圏の病跡学については、すでにゲーテと開高健について議論した。開高健は単純で、日常生活=鬱と旅(トリップ)=躁を繰り返していた。これは「永遠の少年」[*2]の「症例」であるサン=テグジュペリとも通じるところがある。
テレンバッハ
精神病理学や病跡学の対象となるのは分裂病圏のほうが多く、躁鬱病圏は少ない。分裂病圏のほうが神秘的で、躁鬱病圏のほうが世俗的なイメージがある。主治医と、そんな話をした。
テレンバッハの『メランコリー』[*3]は、すぐれて例外的な労作だという話が通じたのは意外な発見だった。
テレンバッハのことも、上記の記事ですでに論じた。
ガミー
ナシア・ガミーが気分障害の実用的なハンドブックを編集している[*4]人だということは知っていたが、ヤスパースに帰れ、という正統的な主張をしながら、躁鬱病圏の精神病理学の考察を続けている[*5]、ということは、最近まで知らなかった。
ただし、かつてならドストエフスキーてんかんとでも言われたような超越的な体験を躁病エピソードであるかのように分析している[*6]のは、解釈の誤りではないか、と考えた。
躁状態にはどこか世俗的な色合いがあり、躁鬱病圏から出現する天才は、むしろ政治や経済の分野で、しかも清濁併せのむような気質を持っている。[*7]それは、芸術や宗教へと超越していく分裂病圏(あるいはかつててんかん性格と呼ばれたもの)の創造性とは質的に異なるような印象がある。
神田橋條治[と坂口恭平]
「気分屋的に生きれば気分は安定する」という迷言は、加藤忠史や内海健によっても引用されているが、出典は波多腰正隆の編による『神田橋語録』(外部サイト)であり、この覚書は波多腰心療クリニックのサイトにPDF形式でアップされている。
「躁鬱人」を自称する坂口恭平の『躁鬱大学』(2020年)は、神田橋語録のすぐれた註解となっている。
単行本化もされているが、元のブログ記事にある「セックス」や「ドラッグ」等の危険な話題は割愛されている。ブログ版の「躁鬱人に麻薬は全く必要ありません!」には、インドの聖地でバング(大麻ラッシー)を引用した経験などが語られていて、非常に興味深い。
躁鬱人にははっきり言うと、教育が必要ありません。教育など必要ないということを教育する必要があるんです。好きにやった方がいい。そのほうが実は楽に生きていくことができます。努力は敵です。やりたくないことをやらないでください。本当は、ジャングルの中でなら、サバンナの上でなら、あなたはきっとそうやって生きているでしょう。しかし、ここは違います。帝国です。非躁鬱人たちによる帝国。実はその帝国を作った張本人だけは躁鬱人なのですが。何か共同体が興るとき、そこには躁鬱人がいます。彼が興すのです。しかし、彼はすぐに疲れます。鬱になります。もしくは死にます。その後、非躁鬱人たちが共同体を運営していくことになるのです。彼らはリーダーを探す代わりにルールを作りうます。そして、リーダーのワンマンでなくても、リーダーがたとえ殺されて急にいなくなっても問題がないように、誰がリーダーでも変わらない社会を作り出します。その成れの果てが今の社会です。われわれ躁鬱人に活躍の場はそこまで提供されることはありません。そうなってしまうとまた別の新しい共同体が生まれることを非躁鬱人は無意識に感じ取り、忌避するからです。そんなわけでわれわれにもそのような共同体を破壊しないようなもの分かりの良い大人になれと言う教育がなされてきたわけです。
ここでは躁鬱人の遺伝子が選択されてきた進化心理学的な理由が説明されている。ガミーも指摘しているように、躁鬱病圏からはむしろ世俗的なリーダーが出現するのである。
進化心理学
生物学的精神医学は遺伝子とタンパク質に向かう還元主義であり、そうであれば、それは進化遺伝学によって基礎づけられなければならない。
しかしながら、この分野は意外に研究が遅れている。その中では、たとえば『進化精神病理学』は和訳もあり、ひとつの方向性を示している。
統合失調症と双極症はいずれも遺伝率の高い疾患であるが、そのような「疾患」がなぜ集団から淘汰されずにーしかも1%という高い頻度でー集団中に保たれてきたのかということは、つねに疑問とされてきたが、同時に詳細な議論がなされてこなかった。
しかし、双極気質については、坂口が端的に指摘しているように、不安定な状況ではむしろ強い適応力を示す。双極性障害の発症には性差がないが、しかしこの遺伝子が男性に発現した場合には、
- リスクを恐れずに速く移動する
- 協調性と攻撃性の両方を併せ持つ
- 多くの女性との間に子孫をもうける
- (しかし、死亡率は高く、寿命は短い)
という、男性的な行動パターンをより強化する。これは、Y染色体の変異の歴史的な分布によっても裏づけられる。
そして、社会的に安定した状況では、むしろ単極性の、メランコリー親和型の気質のほうが適応的になるだろう。メランコリー親和型の気質の遺伝率は低いが、女性に多いという特徴がある。
西欧から始まる近代社会は戦争や一夫多妻婚を倫理的に望ましくないものと考えるから、躁病的な男性性は不適応になり、「病気」というスティグマが強くなる。これは、従来の反精神医学よりもさらにラディカルな理論である。
なお、精神病的な傾向は、双極性Ⅱ型、双極症Ⅰ型、統合失調症という順に「悪化」する。しかし、このような「精神病」的な傾向は、むしろ超俗的な方向に向かうものであって、だから政治や経済などの世俗的な分野よりも、芸術や宗教のほうに秀でているのであって、それはまた別の意味で適応度が高い、ということができる。
記述の自己評価 ★★★☆☆ (つねに加筆修正中であり未完成の記事です。しかし、記事の後に追記したり、一部を切り取って別の記事にしたり、その結果内容が重複したり、遺伝情報のように動的に変動しつづけるのがハイパーテキストの特徴であり特長だとも考えています。)
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