蛭川研究室 断片的覚書

私的なメモです。学術的なコンテンツは資料集に移動させます。

【文献】カント『純粋理性批判』と『視霊者の夢』(あるいは文献学一般について)

(この記事は書きかけです。最後のスウェーデンボルグ論は加筆修正します。)

純粋理性批判

カントの主著は「三批判」つまり『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』であり、そしてその筆頭は『純粋理性批判』である。先に書いておくと、カントの邦訳としては、研究室には岩波版『カント全集』[*1]全巻(ただし別巻なし)と光文社新訳古典選書の『純粋理性批判』と『実践理性批判』、およびその他文庫本数冊を所蔵している。

岩波文庫の天野訳・篠田訳

その『純粋理性批判』であるが、これにも十指に余る邦訳があり、それぞれが日本におけるカント研究史に位置づけられているのだという。

本邦初の完成された翻訳を成し遂げたのは天野貞祐である(底本はアカデミー版)。京都帝國大學とハイデルベルク大学で哲学を学び、帰国しては母校の教授になり、さらには文部大臣を奉職、そして武蔵野市名誉市民として眠る、京都学派の碩学である。

この最初の翻訳は1921年岩波書店から出版された『カント著作集[*2]1933-1936年に岩波文庫(全3巻)におさめられた[*3]

以下は『純粋理性批判』の「空間について」の結論部分である。

しかし、外物に関係する主観的表象(ひょうしょう)であって先天的客観的と言われうるであろうものは、空間以外には存しない。〔なんとなれば、それらの表象(ひょうしょう)のいずれからも、空間における直観からのごとく、先天的綜合的命題を導きだすことはできぬから(3)。それゆえに、厳密にいうと、それらの表象(ひょうしょう)は観念性をもたない、もっともそれらは感能の仕方の——たとえば色、音、温の感覚によって視覚、聴覚、触覚の——主観的性質に属している、という点では空間表象と一致する、が、色、音、温などは単なる感覚であって直観ではないから、それ自身いかなる客観をも(まして先天的には)認識せしめるものではないのである。〕
 
この注意のめざすところは——右に主張せられた空間の観念性を、とうてい適すべくもない例証によって解明しようとする考えの起こるのを防がんとするにある、なぜそういう考えが起こるかというに、色とか味とかいうようなものは、物の性質ではなくして、単にわれわれの主観の——しかのみならず人によって異なりあたうところの――変化と看做(みな)されるのが当然であるから。なんとなればこの場合においては、元来それ自身現象にすぎぬものが——たとえば、薔薇(ばら)——経験的意味においては物自体そのものと認められる、しかもそれは各々の眼において色に関して異なって見えあたうからである。
 
これに反して、空間における現象の先験的概念は批評的警告である、詳しくいえば空間において直観せられるところのいっさいのものは事物自体ではないということ、空間はおそらく物自体に属するであろうところの——物の——形式ではないということ、かえって対象自体はわれわれにはまったく未知的であって、われわれが外的対象と名づけるものはわれわれの感性の表象にほかならぬ、そして感性の形式は空間であるが、それの真の相関者、すなわち物自体そのものは空間によっては全然認識せられてもおらず、認識せられることもできない、しかしまた物自体は経験においては決して問題とせられていないということの警告なのである。

 
天野貞祐訳『純粋理性批判(一)』(講談社学術文庫404), 講談社, 155-156.(講談社学術文庫に収録にあたり新仮名遣いに変更)

格調高い翻訳である。

天野訳はその歴史的役割を終えた、という意見もある。カントの著書は二百年以上も前に書かれた昔の本であるから、雰囲気からすれば、古典は旧仮名遣い・文語体で読んだほうが、古典らしい味わいがある。

それでも重要な古典には次々と新訳が出る。ひとつの理由は、最新の研究成果を盛り込むためである。何百年も前に書かれた本の最新の研究成果というのは何のことかと不思議に思うが、それは文献学的な最新研究のことである。たとえば文献学においては、新しい写本の発見は新発見である。新しい写本の発見によって、これで今までの解釈が大きく変わることさえある。『純粋理性批判』ではそれほど大きな事件は起きていないようだが、たとえば新たに発掘された遺跡から発見された『老子』の写本がその後の研究に与えた影響については、別のページで議論した。

その後『岩波文庫』では、天野訳の活字が摩耗したからという消極的な理由が本当なのかどうか、1961年に「やむなく」代わりに篠田英雄が行った翻訳(底本はカッシーラー版)に代えられた[*4]岩波文庫という廉価で信頼のおけるシリーズで、同一訳者による三批判が出版されているわけだから、私も最初はこれを購入し、しかし、ほとんど読まないまま放置していた。そして、あらためてカントを読もうと思って調べ始めたところ、専門家からは、篠田訳には誤訳が多いと指摘されていることを知った。ただし、下巻につけられた索引が充実しており、その部分だけでもコンパクトな辞書として使えるという評価もある。

天野訳はその後、1979年に新仮名遣いに改められ、講談社学術文庫(全四巻)として復刻された[*5]

この講談社学術文庫版の「まえがき」に、天野は次のような感慨を寄せている。

私は、明治の末年に哲学を学び始めたころから、哲人カントの人格に親しみを感じ、日常生活においてまでカントをまねて、夜は十時に床に就き、朝は午前五時に起床することを実行してきた。どんなに寒くても、五時に起床して勉強することを固く守ったものである。(中略)京都大学哲学科の教授になってから、カントの『純粋理性批判』の翻訳に全力を傾注するようになった。そして、全巻の翻訳を完成することができた。実に三十歳から六十歳にいたるまで、私はこのことに全力を捧げたのである。私の全生命力を、この仕事に捧げたわけである。 
天野貞祐「まえがき」[*6]

全生命力を捧げて完成させた岩波文庫版が絶版になってしまったことについて、天野は「私の生涯の仕事が葬られたのも同然であると感じて、それ以来深い哀愁を覚えていた」のだという。そしてその全生涯を捧げた翻訳が講談社から再版されるにあたっては「ひとり訳者である私個人の大きな喜びであるだけではなく、広くわが国の思想界一般の慶事であると思う」[*7]とも書いている。「どんなに寒くても」五時に起きて仕事にとりかかったという、この天野の雪をも溶かす情熱たるや「冬はつとめて」などという優雅なものではない。まったく男子の本懐、学者冥利に尽きるといった具合である。

原訳と有福訳ー二つの『カント全集』ー

およそ翻訳には二つの方向性がある。一方は直訳、つまり「原文に忠実な訳出を徹底する」方向性であり、他方は意訳、つまり「読みやすさを徹底的に追求」する方向性である[*8]

その後の『純粋理性批判』の和訳にかんしては、原文に忠実な直訳という路線では、 まず原佑訳があり、これは1966年に刊行された理想社の『カント全集』(4〜6巻)に収められた[*9]。哲学文庫版を底本にしつつ、訳注では他の版との異同を詳細かつ簡潔に列挙している。こういう訳註は本文を読んで大意を理解するのには必ずしも必要ないので、ふつうの翻訳で省略されてしまう場合も多いのだが、全集レベルの翻訳には必須である。

翻訳の場合、二重に事情が入り組んでいる。まずカント自身が最初に公刊した初版(A版)と第二版(B版)があり、それが後世の研究者によって、アカデミー(Ak)版、カッシーラー(カッシレル)(Ca)版など、複数の異なる方法で編集され出版されているからである。

原訳はその後、渡辺二郎らにより誤訳などの訂正を経て、新版が2005年に平凡社ライブラリー(全3巻)に再録された[*10]

以下に「空間について」の結論部分を引用する。

空間をつうじてのみ、諸物が私たちにとって外的な対象であるということが、可能なのである。}〔なぜなら、人は、空間以外のいかなる表象からも、空間における直観からのようには、ア・プリオリな諸綜合的命題を導き出しえないからである(第三項)。だからそうした表象には、精確に言うと、いかなる観念性も全然帰属しないのであって、たとえそうした表象が、たとえば、色、音、温かさの感覚をつうじての、視覚、聴覚、触覚という感官様式の主観的性質にのみ属するという点では、空間の表象と一致するにせよ、そうであり、しかも、色、音、温かさは、たんに感覚であって直観ではないゆえ、それ自体ではいかなる客観をも、少なくともア・プリオリには、認識せしめはしないのである。〕
 
このようなことを注意した意図は、人がいま主張された空間の観念性をはるかに不十分な実例によって解明しようと思いつくことを予防するためである。つまり、それというのも、たとえば色や味などは、当然諸物の性質として考察されるのではなく、私たちの主観の変化、そのうえ異なった人間にあっては異なりうる変化として考察されるからにほかならない。なぜなら、この場合には、もともとそれ自身現象にすぎないものが、たとえばバラが、経験的な意味において物自体そのものとみなされているが、それでもこの物自体そのものは色に関してはあらゆる人々の眼に別様に現象しうるからである。これに反して、空間における現象という超越論的概念は、次のような一つの批判的警告なのである。すなわち、空間において直観されるものは、総じて何ひとつとして事象自体ではなく、また、空間は、ひょっとすると諸物自体そのものに固有であるかもしれないような諸物の一つの形式ではなく、むしろ、対象はそれ自体では私たちには全然未知であり、だから、私たちが外的対象と名づけるものは私たちの感性のたんなる表象以外の何ものでもなく、この感性の形式が空間であるが、しかしこの感性の真の相関者は、言いかえれば物自体そのものは、空間というこの形式をつうじては全然認識されもしなければ、全然認識されることもできず、しかもそうした物自体は経験においてけっして問題とはならないという、一つの批判的警告なのである。

 
原佑訳『純粋理性批判(上)』(平凡社ライブラリー527)平凡社、158-159.

その後、さらに厳密さを「先鋭化」させたのがアカデミー版を底本とした有福訳であり、2001年に岩波書店の『カント全集』(4〜6巻)におさめられた[*11]

「校訂注」にはA版とB版の異同が詳細に記されている。原訳とは異なり、「校訂注」とは別に「訳注」が付属しており、こちらはアカデミー版以外の版との相違を比較しつつ、用語自体の辞書的な解説がなされており、古代ギリシア以来の先行研究との対応を知ることができる点で、これは他の翻訳よりも充実している。

しかも「デカルト」のような、誰もが知っているはずの固有名詞にも註がついている。西洋の古典にはよくあることだが、聖書のどの部分から引用されているといったことは見落としてしまいがちだし、ここはアリストテレスからの引用だと書かれているがヘラクレイトスの間違いであるとか(詳細は後述)こうした註が充実しているのは、ページ数が多い全集ならではであり、だから全集の詳細な注釈は、専門研究者だけでなく、初学者にとっても役に立つ。

複数の版を比較した詳細な訳注が付属している点では、やはり理想社・岩波の全集におさめられた三巻本が充実しているが、キーワードに辞書的な解説を加えている点では、だから有福訳がもっとも詳細だといえる。

以下に同じ、「空間について」の結論部分を引用する。

空間を通じてのみ、諸物がわれわれにとって外的諸対象であることが可能になるのである。というのは、空間における直観以外のいかなる表象からアプリオリな総合的命題は導出されえないからである([第一節]3)。だから、厳密に言えば、空間以外の諸表象にはいかなる観念性も帰属しない。ただし、それらの表象は、たとえば、色、音、熱の諸感覚によって、視覚、聴覚、触覚などの感官のあり方の主観的性質に属するという点において空間の表象と一致するけれども。しかし、これらの色、音、熱は、単に感覚であって、諸直観ではないのであるから、それ自体いかなる客観を少なくともアプリオリには〔われわれに〕認識させるものではない。〉
 
こうした注釈の意図するところは、ただ、上述の空間の観念性をまったく不十分な例証によって解明しようと思いつくのを防ぐためにのみあるのである。なぜなら、たとえばもろもろの色とか味とか等々は、正しくは、諸物の性質とみなされるのではなく、さまざまな人間においてすら異なりうる単にわれわれの主観の諸変化にすぎないものとみなされるからである。というのは、この場合には、もともとそれ自身現象にすぎないもの、たとえば、バラは、経験的意味においては、色に関しては各人の眼にとっては別様に現象することができる物自体そのものとみなされるからである。 これに対して、空間における現象の超越論的概念は、次のような批判的警告なのである。すなわち、それは、空間において直観される何ものもそもそも事物自体ではなく、空間もおそらく諸物自体そのものに固有であろう諸物の形式ではなく、むしろ、諸対象自体そのものはわれわれにはまったく未知である、という警告である。そして、われわれが外的諸対象と呼んでいるものはわれわれの感性の単なる表象に他ならないものであり、われわれの感性の形式は空間であり、この感性の真の相関体、すなわち物自体そのものはこの形式を通じては全然認識されないし、認識されることもできないのであり、しかし経験においても物自体そのものについては決して問われない、という警告である。

 
有福孝岳訳『純粋理性批判(上)』105-106.

じつに難解な文体ではあるが、原の翻訳とよく似ている。原文により忠実に翻訳しようと努めているから、必然的にそうなるのである。

Kritik der reinen Vernunft

畢竟、しょせんは翻訳であり、その出来不出来を問うことは本質的なことではない。ようするに、正確な意味を知りたければ原文を読めばよいのである。ある程度古い時代に書かれた古典は、著作権も切れており、また公共性も高いものであるから、たとえば『アカデミー版カント全集』など、その多くはオンライン上で無償公開されている。「プロジェクト・グーテンベルク」でも初版(A版)と第二版、B版の両方が公開されている。

アカデミー版カント全集もオンラインで公開されている。第二版(B版)の該当箇所を引用する。

Es giebt aber auch außer dem Raum keine andere subjective und auf etwas Äußeres bezogene Vorstellung, die a priori objectiv heißen könnte.

Denn man kann von keiner derselben synthetische Sätze a priori, wie von der Anschauung im Raume herleiten (§ 3).

Daher ihnen, genau zu reden, gar keine Idealität zukommt, ob sie gleich darin mit der Vorstellung des Raumes übereinkommen, daß sie bloß zur subjectiven Beschaffenheit der Sinnesart gehören, z. B. des Gesichts, Gehörs, Gefühls, durch die Empfindungen der Farben, Töne und Wärme, die aber, weil sie bloß Empfindungen und nicht Anschauungen sind, an sich kein Object, am wenigsten a priori erkennen lassen.

Die Absicht dieser Anmerkung geht nur dahin: zu verhüten, daß man die behauptete Idealität des Raumes nicht durch bei weitem unzulängliche Beispiele zu erläutern sich einfallen lasse, da nämlich etwa Farben, Geschmack etc. mit Recht nicht als Beschaffenheiten der Dinge, sondern bloß als Veränderungen unseres Subjects, die sogar bei verschiedenen Menschen verschieden sein können, betrachtet werden.

Denn in diesem Falle gilt das, was ursprünglich selbst nur Erscheinung ist, z. B. eine Rose, im empirischen Verstande für ein Ding an sich selbst, welches doch jedem Auge in Ansehung der Farbe anders erscheinen kann.

Dagegen ist der transscendentale Begriff der Erscheinungen im Raume eine kritische Erinnerung, daß überhaupt nichts, was im Raume angeschaut wird, eine Sache an sich, noch daß der Raum eine Form der Dinge sei, die ihnen etwa an sich selbst eigen wäre, sondern daß uns die Gegenstände an sich gar nicht bekannt seien, und, was wir äußere Gegenstände nennen, nichts anders als bloße Vorstellungen unserer Sinnlichkeit seien, deren Form der Raum ist, deren wahres Correlatum aber, d. i. das Ding an sich selbst, dadurch gar nicht erkannt wird, noch erkannt werden kann, nach welchem aber auch in der Erfahrung niemals gefragt wird.

Kant, I. (1787). Kritik der reinen Vernunft. (2. Aufl.) Akademieausgabe von Immanuel Kants Gesammelten Werken Bände und Verknüpfungen zu den Inhaltsverzeichnissen. ), 56-57. (Von dem Raume(空間について)の末尾)

ところがこの原文がまた読みづらい。一文が長く、どこで切れているのかがわかりにくい。代名詞がどの名詞を受けているのかがまたよくわからない。であるのならば、読みづらいドイツ語を正確に翻訳すれば読みづらい日本語になって当然であり、それがより原文に忠実な翻訳だということになる。

参考までに、我らが愚直なる知性、Google翻訳は、該当箇所を以下のように出力する。

しかし、空間を除いて、客観的にアプリオリと呼ぶことができる他の主観的で外部的に関連するアイデアはありません。

宇宙の直観(§3)からのように、それらのいずれからも先験的に合成命題を推測することはできません。

したがって、正確に言えば、空間の考え方にすぐに同意するかどうか、感覚の主観的な性質にのみ属するという理想はまったくありません。たとえば、色、音、および熱の感覚による顔、聴覚、感覚、ただし、それらは単なる感覚であり、直感ではないため、それ自体はオブジェクト、少なくともアプリオリを明らかにしません。

この発言の目的は、色や味などが物の性質としてではなく、単なる変化として考えられているため、空間の理想性があまりに不十分な例で説明できないことを防ぐことだけですこれは人によっても異なる場合があります。

この場合、たとえば元々現象にすぎないものは有効です。たとえば、経験的な意味でのバラは、それ自体が物であるにもかかわらず、色に関してすべての目に異なって見える場合があります。

一方、宇宙における現象の超越的な概念は、宇宙で見られるものはそれ自体が問題ではなく、空間はそれ自体に内在するものの形であるが、それは私たちのものであるという重要な思い出させるものですオブジェクト自体はまったく知られていません。外部オブジェクトと呼ばれるものは、私たちの感性の単なる概念に過ぎません。その形式は空間ですが、真の相関はdです。私は。まったく認識されていないもの自体はまだ認識できますが、経験では決して尋ねられません。

カントの「難解さ」について

けれども、哲学を論じる上では、文章表現じたいもまた本質的なことではない。哲学は詩歌ではない。自然言語は論理的な思考を記述するのには最適ではない。さしづめラッセルやヴィトゲンシュタインならば、最終的にはすべてを論理式で記述すればよいのだ、と言うだろう。

ある思想を記したものが「難解」であることは、議論として高等だということの権威づけにはならない。また、難解な思想書を「読破」すること自体が苦行のようにみなされるのも倒錯した発想である。なぜなら学問とは、むしろ難解で理解不能だった謎を解き明かしていく作業だからである。すくなくとも私はそう思う。

もし「難解」な文章に出会ったなら、まずは読み手である自己の教養と思考の不足を省みる謙虚さは必要ではある。しかし同時に、それは書き手と問題が共有できていないのか、書き手の思考が不十分か、表現力が不足しているか、あるいは、読みにくい文章を書くことが高等なことだと(勘違い?)するような文化のゆえにか、と問うてみる必要もある。

まず、問題意識を共有しているかどうか。これは重要なことである。たとえば西洋思想においては、つねに大文字の神が問題とされてきた。哲学的な理性が出現した後も、デカルトは神の存在を証明しようとし、パスカルは証明できないからこそ信じるほうに賭けるしかないのだと言い、やがて時代が下り、マルクスは宗教は阿片だと喝破し、ニーチェは「神は死んだ」と宣言し、サルトルは、神が死んだがゆえに人間は自由という刑に処せられたのだと煩悶する、その思潮の流れに合って、誠実なるカントは、デカルトのようには証明できないし、パスカルのように信じることもできない神という概念に、なんとか居場所を与えようと、迂遠とも思える議論を展開するのである。(むしろ『実践理性批判』において。)

これは、東洋思想にはあまりみられない問題意識であり、平均的な日本人には理解できなくて当然だともいえる。そして、共有する必要のない問題は、共有しなくても良いのである。もちろん、なぜ共有できないのか、なぜ共有しなくても良いのかについて考える必要はある。なぜ東洋人、ことに日本人は、その文明を発達させる上で、超越的な一神教を必要としなかったのだろうか。そう問うことは必要なことであろう。

また、難解な文章を良しとする文化については(もっぱら日本語でしか読んでいないが)むしろ典型的なフランス現代思想に独特の、流麗かつ冗長な文体に、そのような傾向が感じられる。ただし、それにも二種類あって、同じ構造主義者と呼ばれていても、フーコーレヴィ=ストロースについては、明快な理論が、流麗ではあるが冗長な文体のゆえに解りにくくなっているようであり、ラカンについては、冗長で不可解な文章の背後に(すくなくとも私には)なんらかの明快な理論を読み取ることができない。レヴィ=ストロースラカンを学者というよりは呪術師とみていたらしいし、ソーカルの『知の欺瞞』でも、数学的比喩表現のナンセンスさが指摘されているのは、この三人の中では、ラカンだけである。ラカンは「フロイトに帰れ」と言っていたそうだが、フロイト本人の文章は、たとえその理論が間違っていたとしても、文章は謹厳実直で、ある種の謙虚ささえ感じる。これに対して、同じドイツ語でも、ユングの文章は混乱している。もっともこれは「知の欺瞞」なのではなく、ユング自身が論理的な言語では表現の難しい体験をして、自らが困惑していたという、別の謙虚さを感じる。

それゆえ、カントの議論が難解なのは、文章表現が拙いからだという「批判」は、行われてしかるべきことなのである。日本語ネイティブの私にはドイツ語の語感はわからないが、じっさいドイツ語ネイティブの文人ハイネはカントを悪文と揶揄したという。ただしカントの文体が回りくどいのは、その議論がひとつの総合を目指しているからであり、つまり理性の限界を見きわめつつ、従来の複数の思想を折衷させるために、さまざまな留保条件をつけながら慎重に議論を進めていかなければならない、総合を目指すがゆえの、「守り」の立場にあるからだ、ということはできるだろう。

有福孝岳の「哲学」

私事ではあるが、京都大学に入学したばかりのとき、教養科目で「哲学」を選択した。教授は、ドイツ語の文章が印刷されているプリントを学生に配布して、それを教材とした。『純粋理性批判』という、とても重要な哲学書なのだという。毎時間、そのドイツ語を三行ぐらいずつ、綿密に読み進めていくという授業であった。

この世界はどういう仕組みになっているのか、我々はその中でいかに生きるべきなのか。「哲学」という学問に、そんな壮大な期待をしていた私は、授業にはすぐについて行けなくなり、出席しなくなった。試験の前にもう一度講義の様子を覗きに行ったのだが、階段状になっていた大教室に、出席者は3、4人しかいなかったと憶えている。

そもそもドイツ語など、大学に入ってはじめて学び始めたのである。そしてドイツ語の初級の授業がこれまたマゾッホだとかいう倒錯したテキストの購読であった。そういう教授はまるでサディストであり、その教授の前に私はマゾヒストにはなりきれなかった。

さて、その「哲学」の講義を担当していた教授は有福孝岳という曹洞宗の僧侶であり(本当に毎週三行ずつ訳していたのかは不明だが)『純粋理性批判』の邦訳を完成させ、それは西暦2001年に岩波書店版『カント全集』に、全三巻としておさめられた。先生はじつは道元の研究も行っておられた。禅仏教とドイツ哲学の双方に精通する、まさに京都学派である。そうしたことを知ったのは、すべてつい最近のことである。

先生は『純粋理性批判』翻訳の完成後、2003年に京大の総合人間科学部(旧教養部)を定年退官された。そのときの所感を、以下のように述べておられる。

京都大学に赴任して以来、これまで諸方面・諸領域において研究・学会・著作活動を展開することが出来たのも、あるいはテキストを厳密に読む力がついたのも、留学生活や国際学会での研究発表や各国の学者との学問的人間的対話などが非常に役立っていると自分では確信している。そうした体験が、カントの『純粋理性批判』の翻訳にも甚だしく有効であったことは言うまでもない。
 
京都大学教官として25年間、教養部、総合人間学部、大学院人間・環境学研究科、文学部・文学 研究科などで講義、演習、ゼミなどを担当してきて、つねに優秀な学生と一緒に勉強し自らを錬磨することができたのは教師冥利に尽きると思う。 これからは、教師であることはできても、今までのようにカントの演習ができないであろうということを考えると、非常に寂しい思いである。京都大学の諸先生、事務官の方々、長い間お世話にな り、本当に有り難うございました。どうか皆様もお元気でお過ごしください。

 
有福孝岳「定年退官に思うこと」[*12]

「優秀な学生と一緒に・・・今までのようにカントの演習ができないであろうということを考えると、非常に寂しい思いである」。先生は、あの講義に、そんな想いを抱かれていたのだ。先生は、あの講義を、哲学らしきものを広く浅く概観するのが入門講義だとは考えておられなかったのだろう。むしろ受講生が将来、学問を生業とするところまでを見通した上で、哲学を正確に学ぶ上で、まず必要となるのは正確な文献学的方法論であるということを教えてくださっていたのだと、学者の端くれとなった今、そのように解釈しなおしてみることで、授業で行っていた作業の意味が、それなりに納得できるようになったという感もある。

天野先生の仕事を継承したのが有福先生であり、その授業を受けた私は、ほんのわずかでも天野先生の孫弟子といえなくもない。そう思うと、身が引き締まる想いでもある。

意訳の新展開

さて直訳しても意味をとるのが難しい『純粋理性批判』であるが、いっぽうで、文意を理解、咀嚼した上で日本語に置き換えた意訳としては、高峯一愚の訳があり、これは1965年に河出書房新社の「世界の大思想」の一巻におさめられた[*13]

この意訳の流れをくむのが以文社の宇都宮訳(2004年)、そして作品社の熊野訳(2012年、底本は哲学文庫版)[*14]だという。ただし、長い論考を一冊に収めようとしているため、本文が主で、細かい訳注は省略されている。

とはいえまた、主観的でありながら外的な或るものへと関係し、しかもア・プリオリに客観的なものといわれうる表象は、空間以外に存在しない。空間のほかの表象のどれからも、空間における直観からそうしうるようには、ア・プリオリな総合的命題をみちびき出すことはできないからである (S3)。したがって正確に語るなら、そうした表象には―たとえそれらが、たとえば色、音、熱といった感覚をとおして、視覚、聴覚、触覚という感官のしかたの主観的性状にぞくしているにすぎない点では空間の表象と一致しているにしても―、いかなる観念性もまったく帰属しない。色や音や熱はたほうたんに感覚であって、直観ではないから、それ自体としてはどのような客観も認識させないし、ましてア・プリオリに認識などさせないのである。
 
このような注記をくわえたのはただ、ひとが思いつきで、空間の観念性をめぐる主張をまったく不充分な例によって説明しようとするのを防ごうと考えてのことである。その場合つまり、色や味などはたしかに事物の性状ではなく、たんに私たちの主観の変化と考えられるけれども、しかもその変化は、ひとがことなるにつれてことなりうる変化と考えられるのである。というのもこの場合、もともとじしん現象にすぎないもの、たとえばバラが、経験的な意味においては物自体そのものとみなされており、この物自体がそれでも色については各人の目にべつのしかたで現象しうるものとされているからである。これに対して、空間中の現象にかんして超越論的概念が与える批判的な注意によれば、そもそも空間において直観されるなにものも事象自体ではなく、空間はなにか事象自体そのものに固有な、事物の形式ではないのである。かえって、私たちには対象自体はまったく知られておらず、私たちが外的対象と名づけるものは、じぶんの感性のたんなる表象にすぎない。その感性の形式が空間なのであって、その感性の真の相関者、すなわち物自体そのものはたほう空間をつうじてまったく認識されず、また認識されることもできない。さらに物自体については、むしろ経験においてはけっして問われることがないのである。

 
熊野純彦訳『純粋理性批判』作品社、78-80.[*15]

原文に忠実な翻訳に比べると、だいぶ読みやすい日本語になっている。ただし「ひとがことなるにつれてことなりうる変化」など、平仮名が多いのを、読みやすいととるか、逆に読みにくいと思うかは、読者の好みにもよるだろう。

そして、この意訳路線をより「先鋭化」させたのが、2010〜2012年に光文社古典新訳文庫から出版された(アカデミック版を底本とする)中山元訳である[*16]

052 空間とその他の主観的な像の差異
 
外的なものにかかわる主観的な像[=表象]のうちで、アプリオリに客観的なものと主張できるのは、空間のほかには何もない。というのは空間において直観したものからは、さまざまなアプリオリな総合命題を引きだすことができるが、ほかの主観的な像からは、こうしたアプリオリな総合命題を引きだすことはできないからである(第三節参照)。だから[空間以外の]こうした主観的な像は、厳密な意味では[イデア的な]観念性をそなえていないのである。たとえば[主観的な像の実例をあげてみると]色彩、音色、暖かさの感覚は、人間の主観的な特性としての視覚、聴覚、触覚という感覚方式に属するものであり、[主観的な特性という意味では]空間の像と共通するものであるが、[空間とは異なり]観念性をもつものではない。こうした色彩、音色、暖かさの感覚は、たんなる感覚にすぎず、直観ではないために、そのものとしては客体を(少なくとも)アプリオリには認識させるものではないのである。
 
053 物自体は認識できない
 
このような注意を促したのは、すでに指摘した空間の観念性を主張するために、あまりに不適切な実例が使われるのを防ぐことにある。たとえば色彩や味などは、事物の特性とみなすべきものではなく、たんに人間の主観に生じた〈変化〉にすきないものとみなすべきであり、その変化は異なった人間においては異なったように知覚される可能性があると考えるべきである。もともとは現象にすぎないもの、たとえは[人間の目に映った]一本の薔薇が、経験的な意味では物自体として理解されることがあるが、そうすると[物自体であるはずの薔薇の特性としての]色は、各人に異なったものとして見られうる[という奇妙な」ことになるのである。
これにたいして空間の現象についての超越論的な概念は、このような見方に批判的な注意を促すものである。すなわち、空間のうちで直観されたものはどれも物自体ではないし、事物そのものに固有の形式などでもないのである。また、対象そのものはわたしたちにはまったく知られていないものであり、わたしたちが外的な対象と呼んでいるものは、人間の感性が思い描いた心像にすぎないものであり、この感性の形式が空間なのである。人間の感性が思い描く像に真の意味で対応するのは物自体であるが、これは空間という形式によってはまったく認識されず、認識されえないものである。物自体は経験においてはまったく問われないのである。

 
中山元純粋理性批判(1)』91-93.

一読して何が言いたいのかが理解できる。文章が段落分けされ、通し番号が振られ、段落ごとに表題がつけられている、一文が短く切られており、形容詞が指し示している名詞を具体的に、たとえば「この形式」を「空間という形式」と補っている。

文庫ながら全七巻もあるが、じつに半分が訳者による解説であり、解説書つきの訳書ともいえる。解説書は別に読めば良いという考えからすれば、余計なお節介かもしれないが、本文を読みながら随時対応する解説が読めるのは便利である。

訳語の選択

もっとも読みやすい中山訳は、しかし、それゆえに翻訳としては忠実ではない。原書のドイツ語にまで遡った細かい検討は省略されている。元のドイツ語を示さないまま、定訳である「悟性」を「知性」と置き換えているが、しばしば文中で「知性=悟性」のような併記を採用している。

引用した「空間について」の結論部分に出てくる、いくつかの訳語を表にして比較してみたい[*17]

訳者 出版年 a priori transzendental Vorstellung Dinge an sich
天野 1933 先天的 先験的 表象
篠田 1961 ア・プリオリ 先験的 表象 物自体
1966 ア・プリオリ 超越論的 表象 物自体
有福 2001 アプリオリ 超越論的 表象 物自体
中山 2010 アプリオリ 超越論的 心像 物自体
熊野 2012 ア・プリオリ 超越論的 表象 物自体

戦後に出版された理想社の全集に収められた原の訳語がほぼ定訳となり、岩波版全集の有福訳もそれを踏襲している。

この十年ほどの新しい翻訳の中で、中山は、敢えて新しい訳語を使おうとしているいっぽうで、熊野は、逆に、敢えて定着した訳語を変えないという方針をとっている。

熊野が「訳者あとがき」で「今回やや体系的に訳語を変更することを考えたけれども、結論としては新奇な術語を導入することは差しひかえることにした[*18]」と、慎重な姿勢をとるのに対し、中山は訳註に「定訳というものには、そう訳していれば安心であるという思考を停止させる強い働きがあるものだ。あえて定訳を使わないのは、読者にも立ち止まって考えてほしいからだ」[*19]という意見を付記している。これは中山元という翻訳者の姿勢であると同時に、また光文社新訳古典選書全体のの方針でもある。

理解可能な日本語を使うことを目指している中山訳は「Vorstellung」に、敢えて「心像」という語をあてているが、定訳を無視しているのではなく、随時「表象」という定訳を文中で併記している。「表象(representation)」は認知心理学文化人類学の分野でも、それぞれ確立した意味を持っており、それとカントの「Vorstellung」は、いったん切り離してから論じる必要がある。その代わりに中山訳には本文と同じ長さの解説がついていて、言葉の意味について、たんなる訳註を超えた詳しい文脈を検討している。

「Ding an sich」は『純粋理性批判』のキーワードであるが、それは、たんなる「Ding(物)」ではない。いっぽうで「Ding an sich selbst(物自体それ自体?)」といった回りくどい言葉も出てくる。天野は「Ding an sich」を「物」と訳しているが、それではたんなる「Ding」と区別できない。その後の訳は「物自体」で統一されており、カント独自の概念を示す日本語として定着している。不自然な日本語ではあるが、逆に「物自体」という言葉を聞けば、これはカントの「Ding an sich」だなとすぐに遡れるほどに定着している。熊野はまた「いまさら「物自体」という定訳を覆すことは、いたずらな混乱を呼ぶだけだろう[*20]」とも書いている。

また「ア・プリオリ」はカタカナ語として定着した。天野は「先天的」と訳したが、「a priori」には同時に「先験的」「超越的」という訳語もあるので、それを使うとかえって「transzendental」と区別がつかなくて混乱してしまう可能性がある。そして「transzendental」は、文字どおり訳せば「超越論的」であろう。

純粋理性批判』邦訳リスト

以下に主要な翻訳をまとめておく。

このうち、現時点での最新訳である2014年の石川文康訳(1998年の哲学文庫版を底本にしている)は、まだ手に取ったことがないという単純な理由で、上記の比較には含めていない。篠田訳、高峯訳、宇都宮訳への言及が少ないことについても、たんに身近ではなかったという理由でしかない。

「三批判」

以上が『純粋理性批判』の翻訳についての覚書であるが、それだけでも相当な字数になってしまった。当座、『実践理性批判』と『判断力批判』を含む「三批判」全体については議論している余裕はない。「三批判」の邦訳については、たとえば「カント」で比較・批評が行われている。

『カント全集』

そして、カントの著作全体である。戦前に岩波書店から出版された『カント著作集』は先駆的な試みであったが、すべての著作を網羅した全集となると、理想社の『カント全集』と、それから岩波書店の『カント全集』である。すでにみたように、『純粋理性批判』を訳しているのは原(理想社)と有福(岩波)である。

カントの主著は、なんといっても「三批判」であり、それだけ読めれば良いというのであれば、翻訳もいろいろある。その他『人倫の形而上学の基礎づけ(道徳形而上学原論)』や『永遠平和のために』のような著作も、各社から文庫本が出版されている。

それに対して、全集の面白さというのは、若いころに書かれた文章や、ちょっとしたエッセイや、書簡も読めるところにある。主著だけからはわからない、著者の思想の意外な側面を知ることができ、またその思想の通時的な全体像が見えてくる。カントにかんしては、三批判を書く前の時期(前批判期)に書かれた自然科学についての考察には、太陽系の起源に関する星雲説など、科学史的な価値もある。

『視霊者の夢』

カントの前批判期の著作の中でも、「霊界を見てきた」というスウェーデンボリの霊的体験を皮肉たっぷりに、しかし理性的に批判した『視霊者の夢』という特異な書物は注目に値する。この批判の背景には「理性はどれだけの範囲を扱うことができるのか?」という問いかけがあり、それはまた『純粋理性批判』に先立つ素描ともいえるからである。

カント『視霊者の夢』」に独文・和文の関連文献目録がある。邦訳では、金森誠也の翻訳が講談社学術文庫から廉価で出版されている。とはいえ重厚な全集も訳注が充実しており、専門家だけではなく初学者にとっても役に立つ。

カントの議論はおおよそ、霊的体験とは目覚めているときに見る夢であり、そして夢は主観的なものであって客観性がない、ということである。その根拠にアリストテレスが引用されているのだが、理想社と岩波の両方の全集で、それはヘラクレイトスの誤りだと、痒いところにも手が届くような訳注がついている。理想社版のほうでは、出典がディールス版『ソクラテス以前哲学者断片集』の何ページであるかまで遡って注記してくれている。夢が主観的なものであって客観的ではない、というのは当たり前のことであって、なにもヘラクレイトスアリストテレスのような先哲の議論を追うまでもない、と考えるのなら、それはむしろ煩瑣な老婆心だともいえよう。



記述の自己評価 ★★★☆☆(私はカントだけではなく、およそ哲学や文献学の専門研究者ではないから、これは専門的な視点からの文献案内ではない。むしろ門外漢でありドイツ語にもあまり精通していない者が、カントの議論を理解しようとして各種の邦訳を読み比べた経験談としてお読みいただきたい。そういう体験談なので、細かい間違いや誤植が多々あるかもしれない。その点は、ご指摘いただければ幸いである。)
2019/07/26 JST 作成
2019/08/18 JST 最終更新
蛭川立

*1:「カント全集」(岩波書店版)収録作品リスト」

*2:

*3:

*4:

純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

純粋理性批判 下 (岩波文庫 青 625-5)

  • 作者:カント
  • 発売日: 1962/07/16
  • メディア: 文庫
純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

  • 作者:カント
  • 発売日: 1961/08/25
  • メディア: 文庫
純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

  • 作者:カント
  • 発売日: 1961/10/18
  • メディア: 文庫

*5:

*6:「まえがき」『純粋理性批判(一)(講談社学術文庫404)』講談社, 3.

*7:純粋理性批判(一)(講談社学術文庫404)』講談社, 3-4.

*8:佐藤慶太「三つの『純粋理性批判』新訳

*9:

カント全集 第5巻 純粋理性批判 中

カント全集 第5巻 純粋理性批判 中

  • 作者:カント
  • 発売日: 1966/04/27
  • メディア: 単行本

*10:

*11:

カント全集〈4〉純粋理性批判(上)

カント全集〈4〉純粋理性批判(上)

  • 作者:カント
  • 発売日: 2001/07/27
  • メディア: 単行本
カント全集〈5〉純粋理性批判 中

カント全集〈5〉純粋理性批判 中

  • 作者:カント
  • 発売日: 2003/03/28
  • メディア: 単行本

*12:有福孝岳 (2003).「定年退官に思うこと」『京都大学総合人間学部広報』33, 11.

*13:

*14:

純粋理性批判

純粋理性批判

*15:

純粋理性批判

純粋理性批判

*16:

*17:Twitter上にも、訳語の対照一覧表がある。

*18:熊野「訳者あとがき」熊野訳『純粋理性批判』813.

*19:中山元「訳註」中山元訳『純粋理性批判(1)』247-248.

*20:熊野「訳者あとがき」熊野訳『純粋理性批判』813.