蛭川研究室 断片的覚書

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芸術や娯楽はそれ自体に価値がある

感染症が流行すると病気で苦しんだり、亡くなったりする人が増える。それを減らすためには、外出や営業を自粛する必要がある。そういう理屈である。しかし、自粛をしすぎると社会的、経済的な損失が大きくなる。

自粛をしては困る業種とは、医療関係や、食品関係などである。逆に、お休みしてもかまわないではないか、とされるのが、娯楽だったり芸術だったりする。では、芸術や娯楽には意味がないのだろうか、そもそも必要ないのだろうか。

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ベネフィット自体と、リスクを天秤にかけることは、直接関係がない

先に「苦痛の軽減は手段・快楽の増進は目的:意思決定論の基礎」で議論したことだが、たとえば音楽の演奏会を行えば、感染症が広まるリスクが増大する。リスクの増大を防ぐには、演奏会を延期・中止すればよい。

音楽の演奏会を中止にしてしまうと、音楽の演奏会で収入を得ている人たちが困ってしまう。そういう経済的な損失と、病苦のリスクを天秤にかけて調整しなければならないーーしかし、こうした、リスクを天秤にかける計算だけに目を奪われると、演奏会をすれば観客が音楽の美しさを味わい、演奏会をやめればその楽しみが失われてしまう、という、利得(ベネフィット)を増やす発想が抜け落ちてしまう。

音楽の美しさと病気の苦しみは、次元が違うので比較のしようがない。人生のために芸術があるのか、芸術のために人生があるのか、という問いは、次元の異なる価値を比較しようとしているから、答えようがない。

ただし、利得と損失をゼロサム的に計算するのでは進歩がない。技術がそれを解決してくれる。たとえば、音楽の演奏会をオンラインで行うという方法は、ひとつの解決策であるし、録音された音楽を再生することによって生演奏を疑似体験するという技術は、我々がすでに慣れ親しんできたことである。



CE2020/05/05 JST 作成
蛭川立