蛭川研究室 断片的覚書

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苦痛の軽減は手段・快楽の増進は目的:意思決定論の基礎

緊急事態宣言下でも病院には行く。通院のための外出は、自粛要請の例外事項としても認められている。

なぜ病院に行くのか。病苦を軽減するためである。外出すれば別の病気で自分や他人の病苦を増やしてしまう可能性もある。リスクとリスクを比べて、隔週で通院するのが最適と意思決定をしたのである。

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東京大学医学部付属病院

病院は閑散としている。

いつもは一時間待ち五分診療なのに、今日は先生とゆっくり話ができた。

患者「病気が流行ると病院が空くというのも可笑しなものですね」
医者「来たがらない患者さんが多くてね。で、次回はどないします、いつもと同じ二週間後?」
患者「はい。病院に来て先生とお話しするのは楽しみですから」
医者「それは欲望の倒錯やな。人生、もっと楽しまなあかん」
患者「では人生はどうしたら楽しめるのでしょう」
医者「それは医者の仕事とは違う。医者の仕事は病気を治すことや。あとは知らん」
患者「それは無責任ではありませんか」
医者「医者というのはけったいな商売ですわ。人が不幸になるほど繁盛する」
患者「なるほど。それでは、どうか、失業するまで頑張ってください」
医者「定年になる前に失業するか。頑張らなあかんな」

意思決定の基本は、プラスの要因(利益、ベネフィット)とマイナスの要因(コスト、リスク)を比較し、できるだけコストとリスクを下げつつ、ベネフィットを増やすことである。これを、最適化(optimization)という。リスクとリスクを天秤にかけるのは、その計算の過程にすぎない。

しかし最適化(optimization)とは「リスクをゼロにすることは無理なのだから、そこそこのところで見切りをつけて、あとは楽しもう」という、相応のコストをかけた合理的な思考なのであって、思考するというコストを省略しリスクも無視して、ただ「楽しもう」という楽天主義(optimism)とはアルゴリズムが異なる。

病院と美容院

病院は医療の場だから、例外的に営業が認められる。医療の基本は、リスクの軽減である。しかし、リスクを減らすことは手段であって目的ではない。

理容院、美容院に対して休業要請をするかどうか、議論が続いている。お客さんの皮膚に刃物を当てるかどうかは、今回は問題ではない。街中にある散髪屋さんは例外として残し、大きな美容院には自粛してもらう、という方向でまとまりそうだという。

いつもお世話になっている美容師さんとも連絡をとった。最近はお店を通さずに、LINEで密通しているのである。

お客様「そちらも、もうお休みになるんですか。閉店するところも出てきたみたいですけど」
美容師「うちの職場のほうでもしばらく休業する予定です。すみません」
お客様「お店が休みになったら、給料のこととかも、心配ですよね」
美容師「閉店するわけではないので、とりあえず給料はもらえそうです」
お客様「在宅勤務といっても」
美容師「ネットでつないでテレ・カットとか、できませんよね」
お客様「それは、できませんよね。しばらくは、自宅待機ですね」
美容師「本を読む時間ができたかな。人生を見なおす良い機会ですね」

「散髪」は必要最小限だが「美容」は、不急不要だということか。散髪とは髪を切ることであり、美容とは容貌を美しくすることである。容貌が美しくて悪いわけがない。美容院という場所で感染のリスクが高まることが問題なのであって、「美」じたいの必要性は、他の何物によっても根拠づけられないのである。

しばしば手段は目的化し、本末は転倒し、合理的な意思決定を妨げる。

付記

一読者より感想をいただいた。なかなか教養ある上品な御婦人のようだ。

「なんと申し上げればよろしいのでしょうか、先生の文章は、血の通った物語を、無機的に表現なさるところに面白さがあるのでございます」と仰る。それは、どういう意味なのでしょうか、と伺うと、彼女の知人が『病院の謳』[*1]というブログがあると教えてくれたのだという。

たしかに、精神科病院に通っていることを自慢げに語る自分語りのたぐいは多い。

上の文章 『病院の謳』
  (前略)
患者「病気が流行ると病院が空くというのも可笑しなものですね」 公立の病院なので
医者「来たがらない患者さんが多くてね。で、次回はどないします、いつもと同じ二週間後?」 定年退職なのだそうです。
  (中略)
患者「はい。病院に来て先生とお話しするのは楽しみですから」 ここに来るのが好きなのですよ
医者「それは欲望の倒錯やな。人生、もっと楽しまなあかん」 というと、先生は笑いました。
患者「では人生はどうしたら楽しめるのでしょう」 (中略)
医者「それは医者の仕事とは違う。医者の仕事は病気を治すことや。あとは知らん」 少なくとも精神の病に
患者「それは無責任ではありませんか」 マニュアルなぞ存在しない。
医者「医者というのはけったいな商売ですわ。人が不幸になるほど繁盛する」 (中略)
患者「なるほど。それでは、どうか、失業するまで頑張ってください」 僕達の病は延々と治癒しない。
医者「定年になる前に失業するか。頑張らなあかんな」 僕等の病に定年は、ありません。

私は現在の主治医を尊敬している。彼の主張はまるで禅僧のように明快で、そして力強い。病気とは患者が自らが作りだしている仮構である。なぜなら人間には、ほんらいの状態に戻ろうとする自然治癒力がビルトインされているからだ。病気が治らないのは、患者自身の無知が治療に抵抗しており、生体のホメオスタシスを阻害しているのだ。そのことに気づけば、病気はたちまちに治癒するという。医者の役割とは、その気づきのきっかけを与えることだけだ。だから彼の理想は医者も病院も存在しない社会なのである。

彼の生命観は有機的なシステム論である。なぜなら、生体には個々の分子の集合には還元できない動的構造があると仮定しているからだ。

類似したテクストを一文ずつ切り貼りして二項対立として図式化するーこれはレヴィ=ストロースが神話論の中で好んで用いた手法であるがーつまり、他人様の文章を、都合の良いところだけを引用し編集するのは、いささかマナーには反するかもしれないが、ルールには反していない。引用は紳士協定だからだ。出典は明記したので、該当ページが残されているかぎり、読者諸兄姉は、原典に戻ってチェックすることができる。



CE2020/04/09 JST 作成
CE2020/04/30 JST 最終更新
蛭川立

*1:嶽本野ばら (2020).「病院の謳」『SAVE BEAR』(2020/04/30 JST 最終閲覧)