蛭川研究室 断片的覚書

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【覚書】赤レンガ通院記

在宅勤務でもやるべきことはたくさんあるのだが、外出せず家でじっとしていると過眠症が悪化してしまう。ドーパミンを増やす薬が著効だが、それは対症療法にすぎない。

通院は自粛しない。病院に行くと体調が良くなるからである。

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「人身事故」は翻訳されないか、ときに英語で「accident」と表記されるのみである。(2020年4月、東京)

街は変わりなく穏やかである。銃を持った兵士たちも、防護服に身を固め消毒液を噴射して来る猛者も見かけない。人通りはやや少ないが、楽しそうに談笑している人が多い。「ゴールデンウィークは、うちで、すごそう」という、ほのぼのとしたポスターが、和やかな雰囲気を醸し出している。ときにウサギ小屋と揶揄されるちいさな家の中で団欒を楽しむ日本近代的核家族が図案化されている。

いつものように鉄門を通り抜けようとすると制服を着た男性に呼び止められる。

制服「教職員証を提示してください」
患者「教職員ではありません」
制服「学生さんですか」
患者「学生でもありません」
制服「では入構は許可できません」
患者「理学部の事務室に頼めば即日で卒業証明書を出してもらえます。ロンドン大学に招聘されたときには一時間で発行されました」
制服「原則として現職でなければ駄目です」
患者「そうではなくて病院の患者なのです。精神神経科です」
制服「では診察券を見せてください」

銀杏のロゴが入ったカードを見せると、検温もせずに構内に入れた。

患者「これが中国なら耳に体温計を差し込まれたでしょうに」
制服「私は決められた任務を遂行しているだけです」

病院の入り口には、体温が37.5℃以上ある人は申告してください、と書いた紙が貼ってある。自分の体温を0.1℃の誤差で体感することなど不可能だ。病院に入ると、赤外線カメラが待ち構えている。モニタには、足早に通りすぎる人々の衣服の表面温度が表示されている。

「はなのいろはうつりにけりないたづらに」という書のあるエントランスで受付を住ませ、それから「国破山河在、城春草木深」という書の横を通りすぎ、エスカレーターで四階に上がる。窓の外には赤レンガの建物が見える。長い間閉鎖されていた建物が、去年から洒落たカフェになった。

待合室の椅子に腰掛けると間もなく手元のバイブレーターが鳴った。すぐに診察の順番が回ってきた。

患者「ここへ来て赤レンガの建物を見ると眠気が覚めて頭が良くなるような気がするのです」
医者「『医学部教授会打倒』と書いてある。昔を思い出すな」
患者「論語には『吾れ十五にして学を志す』とあります。私はタイに渡り一度は出家の身になりましたが、また還俗して三十の時に大学教授の職を得ました。けれど四十を過ぎても戸惑うことばかりです」
医者「不安というのは一度落ち込むとなかなか逃れられへん」
患者「今こそは病院が底力を発揮するときです。不安とうつと強迫がセットで感染を拡大していますから、精神科には特別な重要性もあります」
医者「我々の出番はすこし遅れてやってくる」
患者「完全失業率の予測からシミュレートするに、策を講じなければわが国だけで年間二千人の犠牲者が増えます。今日一日でも五十人の死亡と推計されます」
医者「えらい事や」
患者「今日は先生のほうが元気がなさそうですね」
医者「蛭川さんの遺伝子は緊急事態下で活性化するんですな」
患者「明日にだって中国に戻って行って市場の珍獣売買を止めさせたいのです。命を賭してでも遂行すべきミッションです。毎日そのことで頭がいっぱいで夜も眠れません」
医者「ルネスタで眠れんのやったら、コントミンでガツンとやるか。昏と眠や」
患者「ルネスタは苦いですがツキノワくんはとても可愛いのでノベルテイグッズを買いすぎてクレジットカードを止められてしまいました。ツキノワグマは高緯度地帯では季節性感情障害になり冬眠してしまうのですけれど」
医者「How SAD!」
患者「新宮先生は妄想も才能だと仰いました。利根川先生がノーベル賞をとったときです。京大のウイルス研究所で遺伝子操作技術を学んでいました。生物兵器の製造、所持、使用は国際条約によって禁じられていることも知っています」
医者「ラカンはあかん」
患者「自殺とは精神病による病死にほかなりませんが、正気の殉職なら男子の本懐です。『君子は蝙蝠の如し、自ら三省し道を征けば即ち憂い無し』と論語にも書いてあります」
医者「狂気に殺される男もいる。侠気に惹かれる女もいる。畢竟、人は死してDNAを遺す。そうやって人類は進化してきたという訳や」
患者「『佳人には内助の功あれど麗人には傾城の難あり』とも言います。女性には頼らずDNAを転写してレトロウイルスにして空気中に水平伝播させるのはどうでしょうか。今ではPCRが使えるから一気に増やせます」
医者「そんなことをされたら院内感染で医療崩壊や」

渡された処方箋にはコントミンの名前はなかったし、リーマスさえなかった。ルネスタ、つまりエスゾピクロンは3mg/日、アモバン光学異性体だというが、それにしても苦みはとれない。



CE2020/04/26 JST 作成
蛭川立