蛭川研究室 断片的覚書

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精神運動制止・加速化体験力動療法


東京の、とある美容室( 2018年6月)

北緯35度の夏至

北半球は夏至を過ぎたばかりであるが、今年の東京ではもう雨季が終わってしまった。一年でいちばん日差しの強い季節と、いちばん気温の高い季節が同時にやってくるというのも、例年にないことで、じつに青空が眩しく、とりわけ正午のころには、縦方向に落ちる影がずいぶんと長いのが印象的である。

東京は、緯度でいえば西欧のパリやロンドンと同じぐらいかと思ってしまいがちだが、じつは、むしろ北アフリカに近い。北緯35度というのは、エーゲ海の南端、クレタ島と同じである。東京でも、たまたま、南欧風の建物などを見かけると、そんなことを思い出し、うっとりとする。しかし、すこし切ない気持ちでもある。
 

精神運動制止

主治医との会話で名前が出てきた榊原英輔氏が「科学基礎論研究」に『精神医学の科学と哲学』[*1]という新刊の書評を書いているのを見つけた。東大出版から出た三冊シリーズは、当事者研究者必読かと、まずは第一巻を購入。

統合失調症は脱身体化と考えるこができるが、)メランコリー型うつ病では異なる身体性の障害が見られる。ここでは、身体が媒介としての滑らかさと運動性を失い、主体の意図と衝動に抵抗する重たく固まった身体ヘと変化する。身体の物質性と重量は、日常的な行為遂行においては現れてこないが、ここでは前景化し、鉛のような重さ、だるさ、こわばりとして経験される(例えば、胸の周囲にタイヤがあるような感じ、頭のなかの圧迫感、全般的な窮屈さと不安など)。身体は、世界ヘの通路を提供するのではなく障害物として立ちはだかり、周囲から切り離きれている。現象的空問はもはや身体化されていない。とはいえ、これはたんに精神運動の制止によるものではない(例えば、パーキンソン病におけるがごとく)。むしろ、満足を求める身体の能動的次元が消えているのである。通常なら、身体のこの次元こそ、可能性、アフオーダンス、行為の目標の領域としての周辺空間を開くものである。しかしうつ病患者においては、意欲と衝動、欲望とリビドーは滅退しているか消失しており、快感と満足の潜在的な源を開示しなくなっている。身体的制約の現在の状態に限っても、うつ病の人は自己の身体を乗り越えることができない。制止が拡大するとともに、感覚・運動的な空間は最近接の環境ヘと狭まってゆき、うつ病性昏迷で頂点に達する。メランコリーは、生きられる身体の物象化または「物体化(corporealization)」、すなわち過剰身体化(hyperembodiment)」として記述することができる。
 
フックス、T.(田中彰吾訳)「現象学精神病理学」『精神医学の科学と哲学』

「精神運動制止(精神運動抑制)」や「鉛様麻痺」と呼ばれる症状が記述されている。まさにその体験の内部にいるときにかぎって、そのどうしようもない主観的体験を言語に置き換える気力さえ失われてしまうものだが、主体と身体との関係において現象学的に記述すれば、このような表現になるのだろうか。

ウェルニッケによる感覚運動性反射弓の古典的な図式に当てはめれば、パーキンソン病のような神経疾患であれば、精神ー運動性伝導路で障害が起こっていると考えられるが、うつ病の場合は、目標に向かう衝動の意味じたいが失われてしまう。


ウェルニッケによる感覚運動性反射弓の図式[*2]

しかし今、日差しは眩しく、それに映える花の色も眩しい。そして南欧の夏が恋しい。ならば飛行機に乗ってギリシャにでも飛んでいけば良いのかというと、そういうわけにはいかない。じっさいのところは、布団から起き上がり、かろうじて服を着替え、ちょっと駅前に買物に行くぐらいで精一杯であり、帰宅すればまたどっと疲れて座り込んでしまう。そもそも、職場に通うことさえできていないのだから、飛行機で飛ぶなどという以前の問題である。これもまた悲しい。いや、悲しいというよりは、動きたいのに動けない、働きたいのに働けない不条理さである。

うつ症状ということで仕事を休んでいるのだが、見えるものは色鮮やかで、その美しさに心が動く。フックスの言葉を借りるなら、欲望とリビドーは、快感と満足へ向かっている。けれども、そこへ向かって飛んで行こうとしても、主体と一体となって環境世界へ働きかけてくれるはずの身体が動かない。

ならばこれは、うつ病といって精神科に行くよりも、パーキンソン病といって神経内科に行ったほうが良いような病気だろうか。薬物療法のほうも、セロトニン再取り込み阻害剤から、ドーパミン再取り込み阻害剤に変えた。

しかし、身体は本当に動かないわけではない。無理やりにでも歩けば、脚は動く。脚は動かないのではなく、動かしはじめるのがとても億劫で面倒なのである。その億劫さは、より中枢に近い精神運動制止であり、むしろ精神疾患であるうつ症状に伴ってあらわれることが多いという。けれども身体を動かそうとする意欲はじゅうぶんにある。

薬物療法が奏効してきたのかもしれないが、心惹かれる光景を目にすると、どこか未知の世界へ旅立ちたくなるのは以前から変わらないことで、それが研究という仕事の原動力になってきた。その原動力自体は、幼少時より失われたことはない。
 

加速化体験力動療法

大妻女子大学人間関係学部・心理相談センターの福島哲夫さんとは、旧知の間柄である。「加速度体験力動療法」という心理療法のモニターとして参加することになった。クライエントが過去のトラウマやストレスを語り、セラピストがそれに共感する、というプロセスが、心因性うつ病などに有効だという。

しかし、あらためてそう言われてみると、これといったトラウマやストレスといったものが思いつかなくて、戸惑ってしまう。典型的な、環境のストレスが心因となって起こる単極性のうつ病ではなさそうである。

「力動療法」などというと、精神分析が思いおこされるが、これはすこし勘違いだった。幼少時に母親との関係に葛藤がなく、その他家庭環境にもとくに問題はなく、むしろ甘やかされて育ったことで口唇期に固着してしまった自己愛性パーソナリティの永遠の少年が、大人の世界の現実を受けいれることを拒否してきたために、今ごろになって中年期の危機に瀕しているのだ、などと分析されるのかと「期待」していたのだが、福島さんは、まあ、その自己分析は正しいと思うけれどもね、と笑っていた。

ロンドンにいたころには、医療センターに睡眠障害を訴えて行ったところが、タビストック・クリニックから来ている精神分析医の診療を受けることになってしまったものだった。子どものころから星や宇宙が好きで、天文学は今でも趣味である、というと、それは現実逃避だというコメントをもらい、すこし面食らったものである。

フォン・フランツは『星の王子さま』を分析し、サン・テグジュペリの中に「永遠の少年 puer aeternus」という元型を見いだした[*3]サン・テグジュペリは、飛行機に乗ることで「現実」から逃避していたのだという。(→「ブラジルへの郷愁」)



記述の自己評価 ★★☆☆☆
2018/06/28 JST 作成
2018/06/30 JST 最終更新
蛭川立

*1:石原孝二, 信原幸弘, 糸川昌成(編)(2016).『精神医学の科学と哲学』 東京大学出版会

*2:藤縄昭 (2001).「精神運動興奮」『縮刷版 精神医学事典』 弘文堂, 445-446.

*3:フォン・フランツ, M. L. 松代 洋一, 椎名 恵子(訳)(1982).「永遠の少年――『星の王子さま』の深層――」 紀伊國屋書店