蛭川研究室 断片的覚書

私的なメモです。学術的なコンテンツは資料集に移動させます。

精神という仮構?

精神は身体の派生物か

台風一過、じつに気持ちの良い好天である。とても気持ちが良いのに、身体はといえば、ひたすら眠く、怠く、散らかった部屋に座り込んで、ただ窓の外を見ているばかり。天気が良いからといって、出かける元気などない。部屋を片付ける元気も、メールの返事を書く元気もない。過眠症という診断は納得がいくが、うつ病(または躁うつ病うつ状態)という診断には納得がいかない。


猫の額ほどの庭も草むしりなどしないから荒れ放題で、まるで熱帯雨林の林床のようであるが、それにもまた生命力を感じる。

「精神病は神経の病気、神経症は精神の病気」というが、歴史的な都合で、用語がねじれてしまったらしい。いま「神経症」という言葉は使われなくなりつつあるが、「精神病」という言葉も使わないほうがいいのかもしれない。というのも、うつ病も含めて「精神病」と呼ばれてきたものは、じつは脳という内臓の病気であって、つまり身体の反応であって、抑うつや悲しみといった精神症状は、そこから派生してきているものにすぎないのかもしれない。

瞑想と精神展開薬

十数年前、意識研究、宗教人類学的研究もかねて、おもに中南米の、精神展開薬を含む薬草を使うシャーマニズムや、東〜南アジアの瞑想世界を、実践もかねて研究していたことがある。その副作用で脳の調子を悪くしてしまったのだろうか、と考えたりもする。しかし、むしろあのころのほうが、体調はよかった。

じっさい、精神展開体験や瞑想体験は、むしろ心身の硬直をほぐしてくれる作用があると感じる。その後、研究が進み、ヨーガや瞑想が心身の健康に良いということで、社会的にも広く認知されるようになってきたという感がある。精神展開薬についても同様で、不安やうつ、あるいは薬物依存に効果があるという研究が、臨床的な応用に使えるほどに進んできている。じっさい、精神展開薬であるケタミンは、難治性のうつ病の治療に使われはじめた。

ならば、瞑想をすれば心身の不調が治りそうなものだが、ひたすら眠いと、これが瞑想どころではない。瞑想は、どちらかといえば、気分や感情によって認知が偏っていても、注意力自体は保たれている人にとって、役に立つ方法である。私のように、気分や感情にはあまり問題がなく、しかし注意力が低下している場合、そもそも実践が難しい。もっとも、身体ばかりが不調で、抑うつや悲しみなどの感情が無用に涌いてこないこと自体、じつは、たとえ一時期ではあっても、精神展開薬や瞑想の実践に熱中したことの、よい作用が続いているのかもしれない。

2018/09/05 JST 作成
蛭川立