蛭川研究室 断片的覚書

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人生得意須尽歓 ー赤レンガ通院記 Ver. 4.3ー

この記事は基本的にノンフィクションであり、登場する人物・団体・名称等は実在のものですが、若干の文学的脚色があります。

この記事には医療・医学に関する記述が数多く含まれていますが、その正確性は保証されていません[*1]。検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。この記事の内容の信頼性について検証が求められています。確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。

先週のNatureで、SARS-CoVに罹患し抗体を持っていれば、SARS-CoV-2には罹患しないし、これはワクチンの開発にもつながるという[*2]

本郷の東大病院に行って話をしてみるが、組織が大きすぎるのか、縦割りは官僚主義の必然的副作用なのか、部署ごとに人の言うことが違っている。どこで何の検査をしているのかもよくわからない。

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「立入り禁止 安田講堂警備室」

けれども、試験の成績さえ良ければ出身地も家柄も問われないという仕組み、またそうした試験に合格した人たちを、バックグラウンドとは無関係に重用し尊敬する社会のありかたは、よき統治の思想を探究しつづけてきた漢民族が作り上げてきた伝統でもある。

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オンラインで行う予定だった授業も中止に

天寵を負える子らは新たな価値の創造という社会的責任を期待されている。ここでいう天寵とは、生まれ持った才能のことではない。天の理を地を通じ人の世に実現する役割を負っているということである。

けれども四月の早々に学府の門が閉じられてから数えて三ヶ月目に入る。城春にして草木深しと言っている間に季節は春から初夏へ。夏至が近づき、植物たちはますます光合成の勢いを増している。

今日もまた春望の書を横目で見ながら、エスカレーターで四階に上がる。

科挙に及第せず官職を求めても得られなかった杜甫は、なおのこと玄宗が去りロックダウンされたままの首都に無常を感じたのであろう。

精神神経科の受付の、透明なビニールシートの向こうに、ふだんは見かけない、色白の佳人があった。あたかも旧知の間柄のように、親しげに話しかけられる。

受付「すみませんね今日は待ち時間が長くなってしまって」
患者「最近は患者さんがまた増えてきましたね」
受付「先月は半分ぐらいに減っていましたから」
患者「三分の一ぐらいに減ったときもありませんでしたか」
受付「あらずっと通ってこられていたんですか」
患者「はい、病院に来ると元気になるんです」
受付「いま患者さんがどんどん戻ってきています」
患者「お薬の補給ですかね。四週間ぶんしかもらえませんからね」
受付「そうじゃなくて、先生に会いたくなって来るんですよ」
患者「そうなんですよ。先生と会うと元気になるからずっと通ってきていたんです」
受付「そうなんですね。先生と直接会うと、何と言うんでしょうね、雰囲気みたいなものが通じるんですよね」
患者「遠隔通信で話だけして薬だけ処方してもらえばいいじゃないかという話もあるんですけど、それでは駄目なんですよね」

そうやって相づちを打ちながら話のリズムに引き込んでいく彼女自身にもまた、プロフェッショナルな才覚を感じる。それは容姿でもなく声質でもなく、言語の背後にあって言語と同期している非言語的な〈場〉とでもいうべき何かである。

じっさい診察は、数分間という制限時間内に、主治医と禅問答を投げかけ合う。会話の内容というよりは、会話のリズムが同期するとき、一棒一喝を喰らって覚醒するような瞬間がある。

そもそもが睡眠障害で、昼間に自宅でじっとしていると睡魔に襲われて眠ってしまう。昼間に眠ってしまうから、夜に眠れなくなる。

だから昼間に覚醒する感覚を体得すると、この悪循環から脱することができるし、そうすれば薬も必要なくなる。

診察を終え、またエスカレーターに乗り、また「国破れて山河在り」を横目で見ながら、一階に降りる。

詩聖、杜甫に触れたなら、詩仙、李白にも触れないわけにはいかない。

漂泊の詩人、李白の出生地は定かではないが、蜀の成都のあたりで育ったといわれる。

25歳のときに故郷を離れ、四川から湖北、安徽と長江を下り、また西北に向かい、古都、落陽に到る。長安は目前である。

嵩山に登って黄河を見下ろし、人生は川の流れのように過ぎ去っていくものだから、愉しめるときに愉しみ尽くそうではないか。『将進酒』は、そういう心境を、朗々と吟じる。

あたかも老いを嘆くように読める。だから今のうちに人生を楽しんでおこうではないか、そう読めるが、そのとき李白は36歳。自分の才能はきっと認められるに違いないという野心で満々であった。

五年後にはついに上洛し玄宗に仕えるが、ほどなくアルコール乱用により懲戒処分、都を追われる。ふたたび漂泊の徒となり、安徽の地で没した。アルコール依存症が進行し、幻覚妄想状態で溺死したとも伝えられている。享年62歳。

病院を出て、本郷から駿河台の研究室に移動する。

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敦煌[*3]で発見された李白『将進酒』[*4]この酒は「李白」ではなく「天寿67度飲用不可」[*5]

なぜ李白の詩を思い出したかといえば、自分もちょうど36歳のときに、慌ただしく移動していたからだ。

いずれ才能が認められ定職を得られるだろうと、どこか誇大妄想にも似た自信を抱きつつ、雲南の山上、瀘沽湖の畔に遊んでいた折に、疫病による争乱に巻き込まれ、山を下りて麗江に、そして昆明成都、上海と、長江を下り、最後は東夷の倭人として玄界灘を渡り博多まで逃げ延びた。そして翌年、明治大学の新学部設立に合流した。

教授職に就こうというのは、なにかしらの野心のゆえというわけではなかった。世情に媚び売文の徒にならずにすむ安定した収入もともかく、三千冊の書物を収納できる自分の研究室が持てたのは、とても有り難いことであった。

さて今宵、人生の歓びを味わい尽くすのだとしたら、李白はなによりも酒と肉だという。酒池肉林と極みとする漢民族の現実主義であろうか。

対して、古代インド哲学の最左翼とされるチャールヴァーカは、物質的身体が終わればすべては無に帰する。だから生きている間には生の歓びを味わうべきだと説き、ヴェーダの無誤謬性、バラモンの権威を認めない危険思想として抹消されたという。その説はわずかに批判者の著書の中でしか知ることができない。

生の歓びとは何か。チャールヴァーカは論証の結果、それは借金をしてでもヨーグルトを食することであり、また豊満なる美女を抱擁することだという。

古代の世界では、ヨーグルトは借金をしなければならないぐらい希少なものだったのか、美女の条件は何より豊満ということだったのか。ともあれ、そのていどの質素な暮らしを説く哲学が、極左危険思想として弾圧されたのだというから、それがまた解脱を極みとするインドの精神主義であろうか。

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中村元訳註『全哲学綱要』[*6]

ニュー・デリーの大学で知り合った、女性教授のことを思い出した。赤いサリーをふわりと着こなす才女だった。

インドにアメリカン・ヨーガが逆輸入され、セレブに憧れる若い女性たちの間では、脂肪燃焼でスリムな体型を目指すのが流行という。

しかし西洋人はヨーガを誤って解釈している。行者が感官を統御し食事を制限するのはサーンキヤ等の体系にもとづく精神的実践であり、普通の女性が痩せすぎて健康を害するといった、誤った文化まで輸入するようでは、身も心も綺麗になることなどできないでしょう。そう言って気品のある調子で笑っていた。

総じてインドの知識人は今なお自らの文化を誇りにしているように思う。

十七年前、疫病の病毒は広東の猫から来たと聞いた。今また流行しているのは西域から湖北に持ち込まれた穿山甲に由来するとか、これに対し雲南の蝙蝠を持ち帰り研究した湖北の学者は、大元は同じで雲南の蝙蝠だと発表したが、ならば学者たちが病毒を雲南から湖北に連れてきたのも事実だ。諸説が入り乱れている[*7]

標高の高い雲南では紫外線が強く病毒は生きられない、だから病毒に罹った人間は一人もいないのだというのが公式発表だった。けれども国が乱れるほどに小役人たちは保身のために平気で嘘をつくようになるから信用ならない。これが現実主義の悪い側面でもある。

洞窟の水は万病を退散させると言い、柄杓ですくって飲んでいた雲南の人たちを[*8]なんと純真素朴で迷信深いのかと内心で嗤っていたが、あれがワクチンだったとしたら、とも考えられまいか。それがわかれば学者の本懐というものだ。

手を洗い食器をよく消毒する。やがて消えゆく我が身なら[*9]今宵の御馳走はヨーグルトである[*10]



CE2020/06/04 JST 作成
CE2020/06/05 JST 最終更新
蛭川立