蛭川研究室 断片的覚書

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日本のメランコリー文化と抗うつ薬

この記事には医療・医学に関する記述が数多く含まれていますが、個人の感想も含まれており、その正確性は保証されていません[*1]

館内放送が流れる。作業療法室で映画上映会が行われるという。お題は『最後の忠臣蔵』。

患者1(古参)「病院で上映するなら『カッコーの巣の上で』だよな」[*2]
患者2(私)「基礎教養ですね」
患者1「最近はそういう教養のない患者が多いんだ。医者もだけどね」
患者2「一流の病院は、一流の教養を提供すべきですよね」


映画『最後の忠臣蔵』予告編

近世日本の戦士カーストであるサムライたちは、恥辱という観念をめぐり戦った。ヒーローたちの集団自決が(元々の忠臣蔵の)物語の結論である。じっさいには殺されるのだが、形式上、切腹の仕草をしてから斬首されることによって、自死という体面を保つのである。そうした倒錯したタナトスの語りが、自傷他害のおそれがあるとして保護されている患者たちの生活の場で上映されるのだが、スタッフはその倒錯性には気づいていないようである。文化は、その内部で生活するものにとっては、たいがい無意識のプロセスである。

ルース・ベネディクトは『菊と刀[*3]の一章を、この西太平洋諸島民の「国民的叙事詩」の分析に割き、「日本人の生活において恥 haji が最高の地位を占めている」と結論する。

かの赤穂浪士たちがSSRIを服用したならば、物語はどう変わっただろうか。いや、MDMAのほうが良いかもしれない。そんな思考実験は、野暮というものだろうか。

マニアとメランコリア

日本文化はメランコリー親和型の色彩が濃い。東アジアではセロトニントランスポーター遺伝子の不安・うつ型変異が多いという生物学的要因もあるだろうし、敗戦後の復興という、日本とドイツが背負いこんだ歴史的状況もあるだろう。

精神病理学は単極性=メランコリア/双極性=マニアという病前性格論を展開してきたが、TCIの気質論では、両者に共通しているのはうつ病傾向=損害回避(セロトニンが足りない!)であり、加えて躁病傾向=新奇性探求(ドーパミンを求める!)となる。(だから、躁鬱病者は、小心と大胆という二つの矛盾した気質を併せ持つことになる。)


ツェルセンによるメランコリー親和型性格とマニー親和型性格の対比[*4]

日本における抗うつ薬の受容

うつ病は中年世代に多く、とくに女性の更年期と関連しており、生物学的な内因性をうかがわせる。

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日本における気分障害(単極性うつ病双極性障害を含む)の疫学[*5]

日本での気分障害は2000年から増加し、2010年代にはいったん頭打ちになるが、これは気分障害自体が増加したというよりは、認知件数が増えたという部分も大きく、それはまた新規の抗うつ薬SSRIの普及とも並行している。

アメリカを中心に、SSRIが人生を明るくする「魔法の薬」として流行したのが1990年代だったが、このSSRIの流行が日本に伝播したのは1999年で、十年ほどの遅れがある。

「憂鬱や愁いや悲しみは、辛くとも個人の性格を作り上げる要素であるとされ、アメリカ人が病的だとする抑うつ感情は、道徳的意義を持っとともに、自己認識のきっかけとなるものとみなされていた」「『DSM』のうつ病の診断が1980年代に世界的になってきたときでさえ、日本では、鬱証と20世紀半ばのメランコリー親和型性格に対する理解そのままに、どうしようもない悲しみや苦悩は自然な感情であり、ある意味では悟りにつながる状態だとされていた」[*6]

アメリカ人であるイーサン・ウォッターズの、アメリカ文化自己批判の書である『我々のようにクレイジーアメリカ的心性のグローバリゼーション−』では、日本人のメランコリー文化について、そう記述されている。

グラクソ・スミスクライン(GSK)がSSRIであるパロキセチンパキシルという名前で商品化したのは1992年であり、日本での販売は2000年からである。ウォッターズは、日本で抗うつ薬の受容が遅れたのは、日本のメランコリー親和型文化のゆえにであり、製薬会社はこの文化的土壌に合わせるようなマーケティングを行ったと論じている。


グラクソ・スミスクラインによるうつ病啓発キャンペーンの新聞広告(2004)[*7]

この広告は2004年の「消費者のためになった広告コンクール」新聞広告部門で金賞を受賞した。モデルとして起用されたのは「薄幸な」女性を演じることで定評のある木村多江である。ウォッターズは木村について「魅力的な若い女性」[*8]と触れているが、それだけの言葉では足りない。寂しげな、かすかな笑みが、それが日本人の心性にうったえる「魅力」なのである。

その後、木村は2008年の映画『ぐるりのこと』でも、うつ病を患い心療内科(「精神科」のネガティブなイメージを緩和する用語として普及した)で抗うつ薬[らしき薬剤]を処方される主人公、翔子を演じている。


www.youtube.com
橋口亮輔原作・脚本『ぐるりのこと』予告編。日本文化独特の「邦画」の色彩の濃い作風

「しっかり者」の翔子は、家族に起こる不幸な出来事を、自分の責任だと帰属させ、苦悩する。この「自責」が、抑うつ的認知の基本にある。

細川貂々の漫画『ツレがうつになりまして。』が発表されたのは2006年である[*9]

いずれも都市化された日本の核家族における若い夫婦が、人間的な愛情によって心の病を克服していくという物語によって多くの共感を得たが、その背後には「うつ病は普通の人間が誰でも経験する脳内物質のバランスの崩れであり、薬物療法によって完治する」という、矛盾したメタ・メッセージが暗に含まれている。

もしセロトニン再取り込み阻害薬が抑うつに苦しむ登場人物に奏効し、アメリカ文化が求めるような明るくポジティブな人間に作り替えられてしまえば、逆に日本人の共感を失ってしまうだろう。「うつ」は、完治させてはいけない「病気」なのである。

GSK社がパキシルのキャンペーン中に広めたメッセージは、必ずしもつじつまが合っていない。
 
[中略]日本人がメランコリー親和型性格を好ましく思っていたことと、新しいうつ病の概念を進んで関連づけようとしたが、これは、うつ病セロトニン分泌のバランスが崩れて起こる病気だというメッセージを同時に発信していることとは矛盾していた。

 
前掲書、pp. 269-270.

脳内でセロトニンが不足しているために起こる病気という概念は、メランコリーであることが人間の模範だという日本の文化とは矛盾している。

統合失調症が社会的な「不適応」として扱われるのに対し、日本の社会ではうつ病は社会的な「過適応」として扱われる。狂っているのは精神病者ではなく、社会のほうなのだ、という反精神医学的な逆転の言説が成立しているようにもみえる。

SSRIからサイケデリックスへ

上の記事で、パロキセチンの効果はプラセボと変わらないので無意味だ、と解釈できるようなことを書いたが、じっさいには統計的な有意差はある。


グラクソ・スミスクラインパキシル」(パロキセチン)の添付文書に書かれている臨床成績[*10]

最終評価時がいつかはわからないが、HAM-Dのスコアは、プラセボでは10.4、パキシル錠では12.5減少している。これは、上に引用した図とだいたい同じである。しかし、統計的な有意確率は0.01未満である。サンプル数が大きくなるほど、わずかの差でも統計的には有意な差になる。

スコアの減少の比をとると、\dfrac{12.5}{10.4}≈1.2となる。抗うつ薬プラセボより1.2倍効く、とも言えるし、逆に、抗うつ薬を飲み始めて改善した症状は、じっさいには80%は自然寛解だ、とも言える。

複数の研究をメタ分析(meta analysis)によってまとめて分析すれば、より正確な結果が得られる。


各種の抗うつ薬の効果(HAM-Dスコア)のメタ分析(オッズ比)[*11]

OR(odds rate:オッズ比)とは、また別の指標だが、おおよそ、本物の薬とプラセボの効果の比率だといっていい。1より大きければ、薬はプラセボよりも効くということであり、だいたいの薬は1.5〜1.9ぐらいである。パロキセチンは1.75となっている。

ちなみに先に引用したアヤワスカ茶の抗うつ作用は、HAM-Dのスコアでオッズ比が4.87と、他の抗うつ薬とは比較にならない効き目を示している[*12]
hirukawa-archive.hatenablog.jp



記述の自己評価 ★★★☆☆
2018/03/24 JST 作成
2024/03/20 JST 最終更新
蛭川立

*1:免責事項にかんしては「Wikipedia:医療に関する免責事項」に準じています。

*2:

*3:ベネディクト, R. 長谷川 松治(訳)(1967). 『菊と刀社会思想社

*4:内海 健 (2013).『双極II型障害という病——改訂版うつ病新時代——』 勉誠出版, 134.(孫引き)

*5:図録▽うつ病・躁うつ病の総患者数

*6:Watters, E. 阿部 宏美(訳)(2013).『クレイジー・ライク・アメリカ——心の病はいかに輸出されたか——』 紀伊國屋書店, 249.

*7:NTTアドより引用

*8:前掲書、p. 266.

*9:うつ病」になる「ツレ(夫)」は、じっさいには「布団の中で泣いている」状態と「ペットショップで衝動買いをする」状態が混在しており、単極性の「うつ病」というよりは、双極性の混合状態をうかがわせる。もしそうなら、抗うつ薬は病状を悪化させるリスクがあり、「気分安定薬」の服用が必要になる。

*10:グラクソ・スミスクライン株式会社 2020年2月改訂(第1版)パキシルCR錠6.25mg パキシルCR錠12.5mg パキシルCR錠25mg

*11:Iona K. Machado, Csilla Lippert, Ricardo Lozano, and Michael J. Ostacher. (2018). Application for Inclusion to the 21st Expert Committee on the Selection and Use of Essential Medicines: ESCITALOPRAM. 20.

*12:Fernanda Palhano-Fontes, Dayanna Barreto, Heloisa Onias, Katia C Andrade, Morgana M Novaes, Jessica A Pessoa, Sergio A Mota-Rolim, Flávia L Osório, Rafael Sanches, Rafael G Dos Santos, Luís Fernando Tófoli, Gabriela de Oliveira Silveira, Mauricio Yonamine, Jordi Riba, Francisco R Santos, Antonio A Silva-Junior, João C Alchieri, Nicole L Galvão-Coelho, Bruno Lobão-Soares, Jaime E C Hallak, Emerson Arcoverde, João P Maia-de-Oliveira, Dráulio B Araújo. (2018). Rapid antidepressant effects of the psychedelic ayahuasca in treatment-resistant depression: a randomized placebo-controlled trial. Psychological Medicine, 49(4), doi: 10.1017/S0033291718001356.