蛭川研究室 断片的覚書

私的なメモです。学術的なコンテンツは資料集に移動させます。

精神医学の科学と哲学


奥村土牛『ガーベラ』

旧知の心理士さんから送られてきた手紙を、やっと受け取ることができた。病棟に送られてくる封書や小包は、看護師の立ち会いのもとで患者本人が開封するのが原則である。

 
心理士「まだ病院(僧院?)に居らっしゃるのか(中略)しらと思案しつつ、晴和の住所にお葉書します」
患者(『出家としての入院、あるいは僧院としての病院』の原稿は、書きかけで、止まったままです。脳の電圧が下がると、長い文章を書くのが難しくなってしまうのです。と、これは心の中の台詞。)

 
同封されていた、奥村土牛の『ガーベラ』を机の上に置いてみる。淡い色彩に心が和む。
 



主治医との会話で名前が出てきた榊原英輔氏が「科学基礎論研究」に『精神医学の科学と哲学』[*1]という新刊の書評を書いているのを見つけた。東大出版から出た三冊シリーズは、当事者研究者必読かと、まずは第一巻を購入。病院の外に出るときには外出許可証という形式的な書類を書かなければならないのだが、病室の住所をAmazonに登録しておくと、本だけではなく、たいがいの生活用品は手に入ってしまう。

統合失調症は脱身体化と考えるこができるが、)メランコリー型うつ病では異なる身体性の障害が見られる。ここでは、身体が媒介としての滑らかさと運動性を失い、主体の意図と衝動に抵抗する重たく固まった身体ヘと変化する。身体の物質性と重量は、日常的な行為遂行においては現れてこないが、ここでは前景化し、鉛のような重さ、だるさ、こわばりとして経験される(例えば、胸の周囲にタイヤがあるような感じ、頭のなかの圧迫感、全般的な窮屈さと不安など)。身体は、世界ヘの通路を提供するのではなく障害物として立ちはだかり、周囲から切り離きれている。現象的空問はもはや身体化されていない。とはいえ、これはたんに精神運動の制止によるものではない(例えば、パーキンソン病におけるがごとく)。むしろ、満足を求める身体の能動的次元が消えているのである。通常なら、身体のこの次元こそ、可能性、アフオーダンス、行為の目標の領域としての周辺空間を開くものである。しかしうつ病患者においては、意欲と衝動、欲望とリビドーは滅退しているか消失しており、快感と満足の潜在的な源を開示しなくなっている。身体的制約の現在の状態に限っても、うつ病の人は自己の身体を乗り越えることができない。制止が拡大するとともに、感覚・運動的な空間は最近接の環境ヘと狭まってゆき、うつ病性昏迷で頂点に達する。メランコリーは、生きられる身体の物象化または「物体化(corporealization)」、すなわち過剰身体化(hyperembodiment)」として記述することができる。
 
フックス、T.(田中彰吾訳)「現象学精神病理学

「精神運動制止(精神運動抑制)」や「鉛様麻痺」と呼ばれる症状が記述されている。まさにその体験の内部にいるときにかぎって、それを言語に置き換える気力さえ失われてしまうものだが、主体と身体との関係において現象学的に記述すれば、このような表現になるのだろうか。


ウェルニッケによる感覚運動性反射弓の図式[*2]

パーキンソン病のような神経疾患であれば、精神ー運動性伝導路で障害が起こっていると考えられるが、うつ病の場合は、目標に向かう衝動の意味が失われてしまうというのである。
 



かつてヤスパースの晦渋な文章を邦訳したのは西丸四方や内村裕之であったが、翻訳者としての才にも長けた田中彰吾君をハイデルベルクに訪ね、「哲学者たちの小径」を散策したのは、もう五年前になる。晩秋の、夕暮れの、しかも小雨まじりの、メランコリアな風景を思い出す。田中君はヤスパース精神病理学研究所の一室に畳を持ち込んで、そこを即興の茶室にしていた。
 

糸川昌成「症候群としての統合失調症」の章では、卵巣奇形腫〜抗NMDA受容体脳炎〜急性致死性緊張病〜統合失調症、が取り上げられている。もうすこし勉強して「脂質代謝と脳」の「身体病としての精神病」を、いずれ加筆修正しておきたい。

ケタミンの抗うつ作用については「ケタミンとDMT」で触れたが、ケタミンPCPと同様、NMDA受容体のアンタゴニストであり、精神展開薬(サイケデリックス)でもある。インドール系の精神展開薬であるDMTやLSDに比べると、体外離脱体験など、より解離性の体験が強いらしい。

過日、見舞いに来てくれた、探究心旺盛な男子学生が、鎮咳薬で不思議な体験をしたと語ってくれた。コデインなどにかりそめの安楽を求めるのはよろしくないと説教しようとしたところが、それは私の見当違いであり、逆にDXM(デキストロメトルファン)という物質のことを教わることになった。DXMはケタミンと同様、NMDA受容体(PCP結合部位)のアンタゴニストなのだという。彼は、自己の視点が三次元的な身体の外部に出ることによって「視野が広がり些細なことで悩まなく」なったという[*3]。このような、自己の枠組みをいったん解体するような精神展開体験が先にあって、いわばその副産物として抗うつ作用や抗不安作用がある、というのが正しいだろう。

 



記述の自己評価 ★★☆☆☆
2018/05/11 JST 作成
2019/03/04 JST 最終更新
蛭川立

*1:石原孝二, 信原幸弘, 糸川昌成(編)(2016).『精神医学の科学と哲学』 東京大学出版会

*2:藤縄昭 (2001).「精神運動興奮」『縮刷版、精神医学事典』 弘文堂, 445-446.

*3:詳細は彼自身の生の言葉による「現象学的」記述に譲りたい。