全制的施設 a total institutionとは、 多数の類似の境遇にある個々人が、一緒に、相当期間にわたって包括社会から遮断されて、閉鎖的で形式的に管理された日常生活を送る居住と仕事の場所、と定義できよう。 刑務所はその典型的な例である。しかし断っておくが、刑務所を刑務所たらしめる所以のものは、法律を犯してはいない人びとを収容している施設にも認められるということだ。本書は、全制的施設一般とその一事例、すなわちとくに精神病院、を取り扱う。 主たる焦点は施設被収容者 inmate の世界であって、職員 staff の世界ではない。 関心の中心は自己の構造について社会学的解釈を展開することである。
ゴッフマン『アサイラム』(ⅴ)[*1]
ゴッフマン自身が認めているように、しかし彼は、客観性を保つために、あくまでも職員として病棟の中に入ったのであり、これは方法論上の矛盾でもあった。
完全な当事者研究・参与観察との両立が可能であるとすれば、軽症の患者として入院することであろう。もちろん、それは偽装ではなく、本当に治療をするためでなければならない。
氏名は番号の下に隠されている。扉は外側からは施錠できるが、内側からは施錠できない。ここでは〈内部〉と〈外部〉の反転が起こっている。(国立精神・神経医療研究センター病院五階南病棟[*2])
入所手続は文字通り裸になる中間点をはさんで、出離 a leaving off と受容 a taking on によって特徴づけられる。言うまでもなく出離は私物の剥奪を含意するが、このことは人びとが私物に自己のものという感情 self feeling を付与しているので重要である。 おそらく、これらの私物のうちで最も重要なものは、身体的なものではなく、彼の氏名であろう。人がどのように呼ばれることになろうと、自己の氏名の喪失は自己の非常な矮小化となることなのだ。
ゴッフマン『アサイラム』(20)[*3]
「氏名の喪失」は、なによりもプライバシーの保護という観点から行われていたものだが、氏名その他、社会的な属性等がいっさい失われることは、むしろ身軽だったともいえる。
大学教授という肩書きが知られるところになってからのほうが、医師をはじめとするスタッフが私を「先生」と呼びはじめるなど、混乱が起こり、逆に居心地の悪さを感じた。
病棟の内部は厳格な階層社会であり、医師のみが「先生」と呼ばれる権利(そしてそれに相応する強い責任)を持っていたからであるのにもかかわらず、同時に患者でもある私は「先生」と呼ばれる権利を持ちながらも、病者であるがゆえに「先生」としての責任を免除されていたからである。
記述の自己評価 ★★★☆☆
CE 2020/08/08 JST 作成
CE 2020/08/09 JST 最終更新
蛭川立