蛭川研究室 断片的覚書

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【文献】大黒岳彦「量子力学・情報科学・社会システム論」『現代思想(2020/2)』

この論考では、量子力学情報科学止揚されたものとして、量子情報科学の枠組みが議論されている。

量子情報科学が思想次元で為し遂げたことは、大きくいって二点ある。第一は、物理的リアリティを構成する三つの〈相=層〉の存在と、この三〈相=層〉が独立自存できず、相互的連関の中で契機としてのみ存在し得ること、を明らかにした点。三つの〈相 = 層〉とは、「意味」「情報」「物質」である。

大黒のこの晦渋な文体は、正直なところ浅学の者にとっては読みづらいものがある。これは多分に師である廣松渉の影響を受けているが、当人の人柄はもうすこし豪快である。廣松は「モノ」と「コト」を対比させたが、これは量子力学における多世界解釈コペンハーゲン解釈に対応させることができる。大黒は、著者との会話の中で、多世界解釈について「くっだらねぇ!絶対に許さない!」と息巻いていたが、なぜかといえば、多世界解釈古典力学の「モノ」実在論の延長線上にすぎないからである。

ニュートン古典力学体系においては、「意味」の契機が〈形相〉として、「物質」の契機が〈質料〉としてそれぞれ機能し、これらが合することで「物理的実在」という「モノ」が〈構成〉されていた。ただし、このパラダイムの内部では「物理的実在」が〈構成〉物であるという意識は欠落しており、それらが客観的な実在、あるいは〈所与〉として遇されてすらいた、すなわち「意味=物質= モノ」の三位一体的同一視がそこでは成立していたことに注意しなければならない。量子力学とりわけコペンハーゲン派によって初めて、物理的実在の〈構成〉的性格が自覚されると同時に、「情報」の契機が物理学に導入され、その「情報」こそが物理学的な〈所与〉であるとされた。つまり観測によって得られた「情報」の契機に「意味」の契機が付与されることで、不確定的な「モノ」——コペンハーゲン派はそれを「物理的実在」=「物質」とはみなさない——が事後的に〈構成〉される、という構図である[*1]

ここでは「コト」という言葉が用いられていない。「モノ=物質」に対して「コト」を対比する代わりに、「物質=モノ」と「意味」と「情報」の三つの〈相=層〉の相互的連関が語られる。

いっぽうで、数学出自の情報科学が批判される。

数学出自の情報科学は、「意味」的契機を捨象した上でーー「通信の数学的理論』開巻冒頭のシャノンの宣言を想起せよ!――「情報」を形式とみ、「物質」を素材とみる。何故〈形相〉でなく「形式」、〈質料〉でなく「素材」なのかといえば、従来の情報科学者たちが「物質」を「情報」実在化・実現の手段・材料としかみない、つまり「情報」と「物質」をそれぞれ単独で独立自存可能な存在と捉えた上で、「情報」主導、「物質」従属の構図を採るからである(こうした点に情報科学の数学的バイアスが認められる)。

繰り返し使用される〈形相(エイドス)〉と〈質料(ヒュレー)〉は、アリストテレスの用語であり、それと暗に対比されているのは、プラトンである。数学には「情報」という〈イデア〉が主であり、「物質」は〈影〉であり従であるとするバイアスがあり、また、そこでは「意味」が捨象されてしまう。

アルゴリズムの開発が先行し、それを実現する物理的実現のための素材が古典的な巨視的「物質」である間はその方針で問題無かった。だが、素材が量子的な微視的物質、となったとき「物質」からの叛乱が起きる。「情報」という形式に上手く「物質」が収まってくれず、「情報」の実在化に困難を来すようになるのである。ここに量子力学の知見を採り入れた量子情報科学成立の思想史的な必然性がある。ただし、それは既存の量子力学情報科学との単に表面的な接合ではない。そこで実現されているのは、「情報」の純粋形式から〈形相〉への降格と、「物質」の手段・材料から〈質料〉への地位上昇、である。

こうして量子情報科学において「物質」が、「情報」という〈形相〉に見合う〈質料〉として位置付けられたことで、物理的世界が「意味」「情報」「物質」の三契機によって、緊密に織り成された〈形相/質料〉の多階的構成体であることが明らかとなった。

「情報」は〈イデア〉から〈形相〉へと降格させられなければならないし、そうすることで「意味」「情報」「物質」という三つの〈相=層〉の相互的連関からなる量子情報科学が成立する、というのである。

観測とは「情報」を得ることであり、そこに「意味」を見いだすのは、むしろ現象学であるが、そのことについては、追ってまた議論したい。



CE2020/03/07 JST 作成
蛭川立

*1:大黒岳彦 (2020).「量子力学情報科学・社会システム論ー量子情報科学の思想的地平ー」『現代思想』48(2)(2020年2月号), 140-161.(以下囲みは同論文より引用)