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タイの出家僧は方々の家庭を巡り、金属製の鉢に少しずつ食事を入れてもらい、全部を混ぜて右手で食べる。全部混ぜてしまうのは美しくないし美味しくもない、とも思う。
しかし、ご飯とカレールウを全部混ぜて食べるのがインド式だし、そもそも美味しいとか不味いとか、そういう感覚にとらわれてはいけない、という思想もまたインド式である。
美味であるか否か、味覚の判断を停止せよという厳しい要求は、中国に渡った仏教では、消えたようで、食前の祈りの文章が入れ替わっている。
日本の曹洞宗の寺院では、道元の食事作法『赴粥飯法』の記述にもとづいた食事が行われる。
器の扱い方なども、非常に細かく決められているようだが、これを形骸化された手続き記憶と解釈することもできるが、慣れない人間にとっては、マニュアルを見ながらでないと、できない。
「五観の偈」(臨済宗の訓み下し)[*1](花園大学)
一 計功多少 量彼来処
二 忖己德行 全缺應供
三 防心離過 貪等為宗
四 正事良薬 為療形枯
五 為成道故 今受此食
一つには、功の多少を計り、彼の来処を量(はか)る。
二つには、己(おの)が徳行(とくぎょう)の全欠(ぜんけつ)を忖(はか)って供(く)に応ず。
三つには、心(しん)を防ぎ過(とが)を離るることは、貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす。
四つには、正(まさ)に良薬を事(こと)とすることは、形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為(ため)なり。
五つには、成道(じょうどう)の為(ため)の故に今この食(じき)を受く。
(曹洞宗の訓み下し)[*2]
サイケ・デリックとは、無意識の意識化である。手続き記憶に従って、無意識で処理していた情報を、意識的に処理することである。オート運転を、いったんマニュアル運転に切り替えるということである。そこで、心身の動かし方をチェックし、そしてまた無意識に返す。これが刺激=反応の再起動である。
曹洞宗では、鉢の中にまた小さな鉢が、再帰的な入れ子状になった、応量器という食器を使う。
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手を使って食べるのではなく、箸とスプーンを使う。スプーンを使い、箸置きを使わないのが、意外に日本式ではない。禅文化が発達した南宋の時代の食文化の影響があるのだとか。
この応量器だが、曹洞宗では漆塗りの木製の器を使う。Amazonなどの通販でも売られており、ミニマリスト的な生活者にも愛用されているらしい。
艶が強すぎるものは、逆に安っぽく感じられるが、水板(みずいた)という(『赴粥飯法』には使途が書かれていない、用途不明の)長方形の板については、これは鏡の代わりにするという解釈もある。それならば、むしろ反射率が高いほうが実用性がある。電子レンジや食洗機を使う生活にも馴染む、磁器製の製品も開発されている。
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白い器に加えて、漆塗りと色合いの似た、黒も販売開始となった。
記述の自己評価 ★★★☆☆
(つねに加筆修正中であり未完成の記事です。しかし、記事の後に追記したり、一部を切り取って別の記事にしたり、その結果内容が重複したり、遺伝情報のように動的に変動しつづけるのがハイパーテキストの特徴であり特長だとも考えています。)
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