蛭川研究室 断片的覚書

私的なメモです。学術的なコンテンツは資料集に移動させます。

研究生活メモ CE2021/05/18

おとめ座銀河団

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MacBookの壁紙には、東京の地下鉄路線図と、周囲一億光年ぐらいの「地図」を使っている。これは、忘れてしまいがちな現在地の確認に役立つ。

人類学の講義ノートを加筆修正しはじめて、しかし眠くなって寝たのが3時。

夢からうつつへ

鴨川の河原で議論。源氏物語に交差イトコ婚の理論は適用できない、結局、巨椋池まで辿り着く前にほつれてしまう、そう言われて反論できず、胃が痛くて目覚める。ややこしい悪夢をみていたわけである。午前7時。

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とりあえず胃に何か入れる。また眠ってしまい、10時に目覚める。脳が目覚めないのでモダフィニルを半錠、50という数字を入力しようとすると、五十にして天命を知る、と、いきなり変換候補が出てきて驚き。モダフィニル50mg服用。それからもう半錠、50mg服用。

人類学講義 ーアヤワスカ茶ー

「人類学A」2021/05/18 講義ノート」をもとに、掲示板ディスカッション。活発な議論が続く。じっさいに議論に参加するのが数百人のうちの数人でも、その周囲で聞いていて発言しない受講者も多いようではある。

公立の小中学校は義務教育であるし、勉強ができない子が落ちこぼれないように気をつけなければならないが、大学の場合は、勉強ができる子が「吹きこぼれない」ように、レベルを高めに設定するほうがいいのかもしれない。受講生の平均レベルに設定してしまうと、こんな授業しか受けられない大学に来たのは間違いだった、もっとレベルの高い大学に行くべきだった、と思われかねない。

コウモリであるとはどのようなことか

引きつづき「不思議現象の心理学」の講義メモ。「超能力」の研究もさておき、「薬は効くのか」ということを、統計学の具体的題材にしようかと思う。

上海から来たゼミ生に「夜明砂」という漢方薬のことを聞いてみたら、名前ぐらいは聞いたことがある、とのこと。

ethmed.toyama-wakan.net

富山大学の民族薬物データベースには、ヒナコウモリ科やキクガシラコウモリ科のコウモリの糞便を観相させたものを服用するとある。「夜盲症,白内障などの視力回復剤に用いるほか,結膜下出血の治療に有効である.また小児の疳積,ひきつけ,瘰癧,耳だれに応用するほか,粉末を腋臭止めに外用することがある」ともある。

視力回復というのは科学的な「エビデンス」ではなく、フレイザーが未開の迷信とした「呪術(magic)」である。コウモリは暗いところでも目が見えるから、人間がコウモリを食べれば、同じように暗いところでも目が見えるだろう、という、呪術的思考である。(ただし、コウモリの肉ではなく、なぜ糞を食するのかは、この論理だけでは説明できない。)

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(P. 63)

日本語版Wikipediaの「感染呪術」には「ホメオパシーは現代における感染呪術の一例ととらえる考え方もあり、その科学的根拠に対して批判される一因になっている」ともあるが、呪術は未開人の誤った信念でもなければ、現代社会において、満足な教育も受けられない無知蒙昧な人たちが犠牲になっているのではない。ここでは、呪術的な思考は、人間を三人称的な機械のように扱う、科学的な医学に対するカウンターカルチャーとしての意味を持つ。

ネーゲルは『コウモリであるとはどのようなことか』[*1]の中で、以下のように述べている。

コウモリとともに過ごした経験がありさえすれば、誰でも根本的に異質な生のかたちに出会う。
 
コウモリが体験をもつという信念の本質を形成しているのは、コウモリであることがそのようにあることであるようなその何かが存在しているということである、と私は述べた。さて、周知のように、大部分のコウモリは(正確に言えば哺乳類翼手目に属する動物は)主としてソナーによって、つまり反響位置決定法によって外界を知覚する。すなわち、高感度で微妙に調節された高周波の叫び声を自分から発して、有効範囲内にある諸対象からの反響音を感知するのである。
 
彼らの脳は、発せられる衝撃波とそれによってひき起こされる反響音とを相互に関連づけるように設計されている。そして、このようにして獲得された情報によってコウモリは、われわれが視覚によって行なうのと同じように、対象の距離、大きさ、形、動き、感触を正確に識別することができるのである。
 
しかしコウモリのソナーは、明らかに知覚の一形態であるにもかかわらず、その機能においては、われわれのもつどの感覚器官にも似てはいない。それゆえに、ソナーによる感覚が、われわれに体験または想像可能な何かに、主観的な観点からみて似ているとみなすべき理由はないのである。この事実は、コウモリであることはどのようにあることなのかを理解するために、障害となるようにみえる。
 
われわれは、何らかの方法によってわれわれ自身の内面生活からコウモリのそれを推定することができるかどうか、もしできないならば、コウモリであることはどのようにあることなのかを理解するために、他のどんな方法がありうるのか、を考えなければならないのである。

ネーゲルはまた「われわれが行なう想像の基本的な素材は自分自身の体験である」と言っているが、ネーゲルは知識人であり、そして知識と経験を混同している。ヒトが空間を知覚するのはもっぱら視覚によってであり、だからコウモリが暗闇で正確に飛行するのは、暗い場所でもよく見える正確な眼を持っているからだと類推するほうが自然であり、まさか超音波で空間を定位しているとは思いつかないはずである。

呪術的思考は、ときに致命的な誤りを導いてしまうのだが、続きは、また執筆するとして、さて本日の服薬は、ゾルピデム10mg、フルニトラゼパム1.2mg、モダフィニル150mg、ラモトリギン200mg、その他。あまり減らせていないが、時間が決まった仕事がある日は、フリーランで昼寝するわけにもいかない。



CE2021/05/18 JST 作成
CE2021/05/20 JST 最終更新
蛭川立

*1:原書はWhat is it like to be a bat?で、永井均による日本語訳がある。引用は263頁。

コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか