蛭川研究室 断片的覚書

私的なメモです。学術的なコンテンツは資料集に移動させます。

走婚ー雲南モソ人の別居通い婚

緊急事態下で、日本政府は、国民一人に10万円を給付するという。給付対象者は全国民なのだが、受給権者は、世帯主だという。ただし「配偶者からの暴力を理由に避難している者」については特別な配慮をするという[*1]。配偶者どうしの同居は文化的前提である。いっぽう、政府は外出を自粛するように勧告している。これは矛盾だ。



下界では、ネコを食べるとネコの毒に当たるという奇病が流行しているらしい。

毒に当たった人が唾を吐くとネコの毒が地面に落ちて、風に吹かれた砂埃を吸い込んだ人がまたネコの毒に感染してしまう。そして熱を出し、まるでネコ風邪に罹った仔猫のように、咳が止まらなくなり涙を流し、衰弱の挙げ句、命を落とすこともあるという。

すでに非常事態宣言が発令され、中央政府からは唾を吐くと罰金十元という通達が出されたとも聞く。

飛び交う噂を、どこまで信じていいのかわからない。

中国は雲南省四川省の省境にあるルグ湖の周囲に暮らすモソ人の社会を訪ねたのは、西暦2003年4月のことであった。

モソ人は、性的関係にある男女が共住しないというユニークな文化を持つ[*2]核家族普遍説を唱えたマードックは、そうした婚姻居住規則は存在しないとしたが、マードックの主張は近親婚の禁忌が普遍的だということであって、夫婦の同居が普遍的だというところに主眼があったのではない[*3]

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モソ人「世帯」の大半が「走婚」である。2003年4月、モソ民俗博物館

モソ人の社会は母系で、モソ語で「セ」(歩く)または「アチュ婚」、中国語で「走婚」と呼ばれる通い婚を行うことで知られている。アシャないしアチュと呼ばれるある種の配偶者が存在するが、同じ家屋に住むことがない。伝統的なしきたりでは、男女が互いに歌を詠み交わし、合意に達すると「走婚」が始まる。

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モソ人のある一族の家系図。「夫/妻」と書かれているのは一夫一妻婚で、「走婚」の場合には、子の父親は明らかではない[*4]

ただし古代の日本など他の類似した社会では、子が生まれると妻子が夫の家に移住するのが普通であるのに対し、モソの社会は、女が産んだ子の父親は問われないので、男女が子どもが生まれた後も共住しないという点で特異である。

日本人(私)「夫婦は別居でも良いでしょうけど、お子さん方と一緒に暮らせないのは寂しくないのですか」
モソ人(男)「家には甥っ子とか姪っ子とか(註:姉妹の子)がいて、自分の子供みたいなものですからね、寂しくはないですよ」
日本人(私)「まるで人類学の教科書のような模範解答ですね」

母系社会においても公的な権力の所在は男性側にある。男性は妻の家、つまり別のクランにあっては弱い父権しか持てないが、姉妹の家、つまり自分のクランでは、強いオジ権(avunculate)を持つ。母系社会は母権社会ではない。この原則はモソの社会にも認められる。(母系制と父系制については
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~hirukawa/anthropology/theme/descent/index.html
を参照。)

社会進化の分析にあたってイトコ呼称に注目したのはモルガンだったが、これがエンゲルスの古典的著作『家族・国家および私有財産の起源』[*5]
へと受け継がれた。

モルガンはハワイ型(マレー型)の体系をもっとも原始的な乱婚制度の反映と考えた[*6]点で誤っていた。ハワイ型の親族呼称はふつう双系社会と結びつく。すべてのキョウダイとイトコを区別しないのは、すべてのキョウダイ・イトコと結婚してもいいという意味ではなく、むしろ逆に、すべてのキョウダイ・イトコが結婚してはいけないカテゴリに分類されると解釈されるべきで、だからヨーロッパや日本に多く見られるエスキモー型の呼称体系(すべてのイトコをキョウダイから区別する)のほうがむしろ、もっとも原始的なのである。

ヘーゲルは逆立ちしていたのかもしれないが、モルガンも逆立ちしていたことに、エンゲルスは気づかなかった。そしてこの社会進化理論が教条的マルクス主義の「教義」の一部となってしまった。

モソ社会の出自規則は母系で、婚姻居住規制は妻方居住に準ずる。そしてイトコ呼称はハワイ型であり、このような社会をマードックの分類ではナンカン型[*7]という。とても珍しいタイプの社会である。つまり、ふつうは双系社会と結びつくハワイ型イトコ呼称が、モソ社会では母系制と結びついており、しかも妻方居住婚でさえなく、ずっと通い婚が続く。これが、たまたまモルガン理論の原始乱婚社会のイメージに似ているようにみえてしまう。

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「モソ温泉、男女同浴、原始、伝統、天体、自然」観光客向けの看板。モソの人たちは温泉が好きだが、日本人のような全裸で男女混浴という文化は持たない

文化大革命の時代には、走婚は禁じられ、一夫一妻的な核家族が奨励されたが、その反動で、走婚はモソ人アイデンティティーとして復活してきた。さらに、その「原始的」な「女人国」のイメージを利用した観光開発が進んでいる。共産主義(Kommunismus[*8])が目指すべき未来、つまり家族、国家そして私有財産が解消された先にある理想社会とは、多夫多妻的な共同体(Kommune)なのだろうか。



 
モソ人(女)「漢族はイヌでもネコでも見境なく食べるから変な病気になった」
雲南の漢族「それは広東人だよ。私たちはそんな動物は食べない」
日本人(私)「市場で変な動物を売っているから、屋台で別のものを食べても病気になってしまう」

かく言う私も、まだすこし熱と腹痛があった。ひょっとして、下界の屋台で食べた麻婆豆腐の中にネコの毒が入っていたのかもしれない。

屋台の料理は美味しいが、衛生の面で問題がある。市場の衛生状態が悪いから、病原体の温床になってしまう。(それは大問題なので、改めて別の場所で議論したい。ここでの話題は、モソ人の通い婚について。)

モソ人(女)「日本人もソンロンとか変なものを食べるでしょう」
日本人(私)「ソンロン?」
 
こういうときに役に立つのが筆談である。愛らしいモソ女性が、持っていた紙片に「松茸」と書いてくれた。漢字という暗号のようなメディアは、偉大な中華文明の発明である。周辺異民族は、中華帝国の文化に恭順することで、母語を超える相互コミュニケーションの方法を手にした。
 
日本人(私)「マツタケですね」
雲南の漢族「マツタケ?」

私は「松」「茸」という文字を順に指さして説明した。

日本人(私)「日本語では『松(ソン)』は『マツ』、『茸(ロン)』は『タケ』と言うのです。『マツ』はこの木のことですね」
 
私は松の木を指さす。ルグ湖の周囲には美しい松林が広がっている。

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モソの人たちが暮らすルグ湖。標高は2800m(2003年4月撮影)

モソ人(女)「日本人はこんなところまでわざわざ松茸だけを買いにくる」
雲南の漢族「それが一本何千円かで売れるから、商売が成り立つ。あんなに臭いものを」
日本人(私)「私もあまり好きじゃないですけど、中国では食べないのですか」
雲南の漢族「中国人だから何でも食べるわけじゃないですよ。まあ、キノコは食べ物というよりは、漢方薬ですね」
モソ人(女)「イヌやネコなど美味しくないと思うのですけど」
雲南の漢族「コウモリとかセンザンコウとか、あれも漢方薬みたいなものですね。あんなものを食べて精力がつくとか信じている男がいるらしいですけど、私はそんな男性はご免です」



通い婚のシステムを調整するのが、男女の間で交わされる歌である。

Si la go si ma ɲi
(助) 山の斜面 ない

 
木は同じ一つの山の斜面の木ではないけれど、
 

si le bo bo khwɯ bi
(助) くちづけする 〜させる

 
枝を互いにくちづけさせよう。
 
遠藤耕太郎『モソ人母系社会の歌世界調査記録』95.[*9]

二本の木は別の場所に生えているが、その枝は交わることができる、という意味である。「bo」は擬態語で、さしづめ日本語に訳すなら「チュッ」というところか。

遠藤は、同様の歌が萬葉集にもあることを指摘している。

遅速(おそはや)も 汝(な)をこそ待ため 向つ峰(を)の 椎(しひ)の小枝(こやで)の 逢ひは違(たが)はじ
 
(遅くなっても早くなっても、あなただけをお待ちします。向こうの山の、椎の小枝が重なり合うように、きっと逢えると)
 
萬葉集』(14・3493)[*10]



シイは日本から雲南まで続く「照葉樹林文化」の代表的な樹木だが、モソ人の住むルグ湖のあたりは標高が三千メートルほどあるので、落葉樹林帯に属する。

日本人(私)「昔の日本にも同じような恋歌があったのですよ」
モソ人(女)「日本人は、雲南少数民族は昔の日本みたいだと言いますね」
日本人(私)「日本語では『マツ』は、この木のことでもあり、女性が、男性が来るのを『待つ』という、両方の意味もあるのですね。だから松の木には、特別な意味がある」
雲南の漢族「学校で日本語を勉強しましたけど、すぐに着いていけなくなりましたよ。だって、一個の漢字の読みかたが違ったり、同じ音でも意味が違ったり」



掛詞は、同音異義語の多い日本語ならではの詩的表現である。百人一首にも収録されている藤原定家の歌は、「松=待つ」を技巧的に用いた、よく知られた一首である。

来ぬ人を 松帆(まつほ)の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩(もしほ)の 身も焦がれつつ
 
(いつまでも来ないあなたを待って、まるで松帆の浦の夕なぎのころに[塩を煮詰めるために]焼く藻塩のように、私の身も焦がれつづけています)
 
『新勅撰集』(13・849)

じつにいじらしい女心であるが、もっとも作者の定家は男性である。こういう女性がいてくれたらという、いささか身勝手な空想を、男性が詠んでいるのである。たとえて言えば、演歌のようなものか。

雲南の漢族「走婚(通い婚)は、男ばかりに都合がいいのではないですか。女は泣きながら待つしかない」
モソ人(女)「でも、それも悪くはないのですよ。毎晩の義務で来られるよりは、彼がどうしても私に逢いたいときに、そういう気持ちのときにだけ来てくれるから」
日本人(私)「自分が逢いたくないときに男が来ることもあるでしょう」
モソ人(女)「そのときは、彼が扉を叩いても、部屋の扉を開けないのです」
雲南の漢族「好きではない男が来ても断る権利がある」
モソ人(女)「女が夜に出歩くのは良くないのですけど、今は携帯電話で彼を呼び出せますしね」

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モソ人の女性の寝室。男性は玄関を通らなくても窓から部屋に入ることができるが、開閉は内側からしかできないようになっている(モソ民俗博物館にある復元家屋、2003年4月)

有線電話が普及しなかったところほど、携帯電話が先に普及し、地上波放送が届かないところほど、衛星放送が先に普及する。

噂話など誇張された冗談のようなものだし、国営放送は観念的な理想論ばかりで、感染の実態を伝えない。だから、意外に辺境の人たちのほうが、外国の衛星放送から仕入れた情報をよく知っていたりする。

いよいよ夜間外出禁止令が敷かれれば、男は女に逢いに行けなくなる。実直素朴なモソの男には、警備兵に賄賂を渡し夜道を素通りするなど、思いもよらないだろう。女は涙で枕を濡らすことしかできなくなるだろう。



記述の自己評価 ★★★☆☆
CE2006/09/25 JST 作成
CE2020/05/01 JST 最終更新
蛭川立

*1:特別定額給付金(新型コロナウイルス感染症緊急経済対策関連)」

*2:夫婦別居の文化としては、南インドのドラヴィダ系民族、ナヤールの戦士カーストの例が挙げられることが多いが、その風習は20世紀になって廃れた。モソ人の場合は、文革後の民族意識の復活と観光化によって伝統文化が再興しつつある。

*3:マードック, G. P. 内藤 莞爾(訳)(2001).『社会構造―核家族社会人類学―』新泉社, 38.

社会構造―核家族の社会人類学

社会構造―核家族の社会人類学

*4:和鍾華(1999).『生存和文化的選択—摩梭母系制及其現代変遷』雲南教育出版社, 255.

*5:エンゲルス, F. 村田陽一(訳)(1884/1971).『家族、私有財産および国家の起源』(初版)『マルクスエンゲルス全集』(21巻)大月書店.

*6:モルガン, L. H. 青山道夫(訳)(1961).『古代社会』(下巻)岩波書店, 175-210.

古代社会 下巻 (岩波文庫 白 204-2)

古代社会 下巻 (岩波文庫 白 204-2)

*7:マードック, G. P. 内藤 莞爾(訳)(2001).『社会構造―核家族社会人類学―』新泉社, 287-289.

*8:今村仁司らは筑摩書房の『マルクス・コレクション』において、敢えて「コミューン主義」という日本語訳を使っている。

*9:遠藤 耕太郎 (2003).『モソ人母系社会の歌世界調査記録』大修館書店, 95.

*10:[編著者不詳 (c. 783).]小島憲之・木下正俊・東野治之(校注・訳)(1995). 『萬葉集(3)』(新編日本古典文学全集8) 小学館, 497.

新編日本古典文学全集 (8) 萬葉集 (3)

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  • 発売日: 1995/11/17
  • メディア: 単行本
この歌は、男が詠んだものとされるが、女が詠んだとする異伝もある。現代語訳は、蛭川による意訳。