蛭川研究室 断片的覚書

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パノプティコン/監獄の誕生

今朝は久しぶりに偏頭痛で寝込んでしまい、残念ながら、もろもろの予定もキャンセル、仕事も進まず。頭痛の原因は、たいがいは寝不足である。

けれども深夜になって目が冴えてきて、仕事が捗ってしまう。遅れを取り戻そうとして頑張ると、睡眠相後退症候群が悪化して、結局はまた寝不足になってしまう。

そういうときは、入院していたときのこと思い出す。病棟では、夜間も休みなく、一時間おきに看護師が病室を巡回する。病室は個室で、外側からは鍵がかけられ、内側からは鍵がかけられない仕組みになっているから、とくに消灯後の時間は、看護師さんは無音でひっそりと病室に入ってくる。

寝ていて気づかないか、寝たふりをして気づかないふりをするか、眠れないということを告解して睡眠薬を持ってきてもらうか、である。

退院後も、眠くなくても決まった時間に布団に入り、消灯することにしている。しばらくして眠れなければ、病棟で使っていたのと同じカップを使って、聖体拝領のように睡眠薬を一服する。

過日の診察のときに、そういう習慣を続けているのだ、という話をした。主治医はすかさず「パノプティコンやな」と言って笑った。

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パノプティコンの模式図[*1]

パノプティコン(一望監視施設)」とは、フーコーの『監獄の誕生(Surveiller et punir, Naissance de la prison)』のキーワードである[*2]。俗に、一時間待ち、五分診療というが、けれども、このひと言で、お互いに何が言いたいのかが通じる。当意即妙である。

【付記】一読者氏より、意味が逆ではないかという指摘を受けたが、なるほどフーコーが批判しているのは、外的な権力による監視社会のことではなく、その逆転である。つまり、近代社会においては、自由な主体が自らの良心に従って行動できるようになる。私は、そうして健康な生活が維持できることについては、基本的に、肯定的にとらえている。

しかし、外部から監視するという仕組みが、監視される個人に内面化されることで、支配がより巧妙になったのではないか、というのがフーコーの指摘である。われわれはそのことに無自覚であってはならないし、主治医との対話にも、そこまでの意味が織り込まれているからこそ、主治医は笑ったのである。もっとも、垂直的ではなく、水平的な相互監視によって秩序が保たれているという部分が大きい日本の社会では、個人の主体的な自由という西欧的なモデルは必ずしも当てはまらない。

規律社会/管理社会

近代以前の権力は、規則に従わなければ殺す、処罰するという権力であった。それに対してフーコーの「生権力(bio‐pouvoir)」は、ひとつは個人の身体を規律正しく従順にしようという「規律権力」として、また個人ではなく集団を管理しようとする管理社会である。

2019/08/04 JST 作成
2020/05/11 JST 最終更新
蛭川立

*1:二階堂友紀・中崎太郎 (2017).「森友質疑、首相からの電話 『国会の爆弾男』も質問封印」『朝日新聞デジタル

*2:フーコー, M. 田村 俶(訳)(1977).『監獄の誕生―監視と処罰―』新潮社, 202.